お母さんの「敏感期」

モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる
子どもの才能は「敏感期」できまります。それを発見するのは、お母さんのすぐれた観察力です。
モンテッソーリ教育の第一人者がわかりやすく解説するお母さんのための基本育児書

娘の幼稚園がはじまって、ますます今のこの時間が貴重に思えてきた。
本当に大切なことは何か、改めて考えてみたくて、この一冊。


モンテッソーリは、本当に子どもをよくみている。
「教えてやろう」「教育してやろう」という偉そうな上から目線や大人のエゴを捨てて、
本当に子どもの目線を取り戻すために、何度も読み返すべき必読書。
また、p172からの図解の遊び道具の工夫だけでも、
この本を手にとる価値がある。
付箋を貼ったところを、以下に。
●基本的なマインドセット

「心が見えるような顔」「生き生きした顔」「自信に満ちた顔」….子どもを見ていて、それが見えるか見えないかが、よいお母さん・よい保育者になるかならないかの分かれ目です。「これができるようになった」とか「こんなよい評価をもらった」とか、子どもがやったことの結果の方ばかりを見る大人はけっして、幼児期の教育の本質をかむことができないのです。
お母さんが目くじらを立てて子どもを怒鳴りつけ、子どもと本気でけんかをしている場面はどこででも見受けられるものですがそれは、敏感期のことを知らない大人が、自分の尺度で測れない不可解な子どもの行動に腹を立て、強引に親のいうとおりに動かそうとするからです。でも、子どもにとっても、内面から押しあげてくる生命力に導かれ、その時期にこそ、しなければならない自然からの宿題をしているのですから、そうかんたんに、ゆずることはできません。そこに、大人と子どもの本気の争いが始まります。
教えながら、教える
モンテッソーリは、「教えながら、教えなさい」といった。子どものまちがいを訂正しながら教えてはいけないという意味である。大人は、自分が見せたとおりに子どもがしないのを見ると、とっさに手をだして訂正したり、せめたりするものだが、この反射的な大人の訂正に出合うと、子どもの心は萎縮する。子どもがひとたび自分の殻に閉じこもってしまうと、もうどんなに教えても受け入れない。だから、あくまでも、教えて、教えて、繰り返し教えることが大切である。
じりつ(自立と自律)… それが、子育ての間じゅう一貫して見定めておこなければならない、たった一つの大切なキーワード 「自立」の反対語は「依存」、「自律」の反対語は「他律」であることを考えると、日本語では発音は同じですが、内実はことなっているのがわかります。
自分で自分の身のまわりのことができるから「自立」しているとはかぎりません。「自立」とは、人格の深いところからの確信、存在そのものの安心、とでもいえる人間の中核に触れるテーマです。だから、「ひとりでしなさい」「自分で考えなさい」と命令して実現するものでもありません。
1) 自分から自由にかかわる
2) かかわったことを続けてする
3) 付けてするうちに全人格的かかわりになる
4) かかわり抜いて「やった!」「すんだ!」「わかった!」などの実感で終了する
この四つの段階を通過し、深い充実感や自信を味わったときに子どもは人格の奥深いところから変わり始めます。
子どもがやりたがっていることを観察し、それを心ゆくまでできるようにしてあげたいものです。「あっ、それは引っぱっちゃダメ!」「それ投げてはいけませんっ!」といわなくてもいいように、身近な物を利用して、子どもが何回でもくり返しやれるような遊び道具を作ってあげましょう。
大人の目的は結果、子どもの目的は過程

この部分だけは、暗記するぐらいくり返し読んでおきたい。
×忙しいとき、子どもが大切にしている「過程」を大切にする気持ちを忘れたり
×つい子どもを「訂正」しようとしたり
×自分からかかわるのではなく、形だけの自立を強制しようとしたり
ということになりがちだ。
またまた、深く反省した。
●敏感期への理解

日本では、心理学の「発達課題」とか医学の「臨界期」という言葉は教育用語に使われますが、生物学の「敏感期」は教育界に取り上げられていません。「フランスでは、どうですか?」とフランスの幼児教育の大専門家にたずねたところ「『敏感期』のことを知らなくて幼児教育のことを話せない」といっていました。

何十年も前にモンテッソーリがブレイクしたというのに、
日本では、まだこの常識すら理解されていないのが残念だ。
●敏感期の学びに大切なこと

なんのためにおけいこごとをさせるのかといったら、集中してひとつのことをする喜びを知るためである、と今は断言できる。その意味ではなんでもいいのだ。
学齢期以上になれば、「困難を乗り越える苦しみ」を知ることは大切です。でも幼児期に「がんばりなさい!」と叱咤激励して苦しみに耐えることを強いると、生涯そのことがいやになることもあります。
子どもが、自分の目でしっかり見て「なるほど、そうするのか!」とわかって、「自分もやってみよう」と自分でやってみて、「どうすればいいか」を身につけるときは、たんに「できるようになった」のではなく、「動き方」を「学んだ」ことになるのです。動き方は知性の法則に従ってなされるので、「動き方」を身につけることは、「学び方」を身につけることでもあるからです。
今のお母さん方の中には、「学ぶ力」を幼児期に身につけさせるために、まったく逆のことをしている人がたくさんいます。ただ頭だけを使う計算や文字書きをする塾に行くことこそが学力をつけることだと思い込んだり、あるいは、子どもが自分ひとりでできるように「動き方」を教えるかわりに、むしろ子どもはしないですむようにお母さんがしてあげたり、便利な道具や機械を買ってあげたりして、自然の法則に逆行する手のかけ方をしている人がおおぜいおられるようです。

自分が、七田式をみたときに何かが違うと感じたのは、この部分のことだった。
それにくらべると、ドーマンメソッドはこの子ども「じりつ」の大切さと矛盾がなくすんなり受け入れられた。
●具体的な工夫

四歳から小学校一年までの間にピアノの先生が、毎回レッスンの前にグループでカードを使って音をあてる遊びをしてくれたんです。先生が、ピアノをボーンと鳴らすと私たちが、その音の音名が書かれたカードを取ったりだしたりして遊ぶゲームだったんです。
味覚の敏感期
この時期に「おふくろの味」を知るのです。お母さんの塩加減や手の味が敏感な味覚にわかるからです。そして、この時期に味わったお母さんの手づくりの料理の味が「おふくろの味」として味覚の記憶に残り、一生涯その人の心をあたためるのです。だから、この時期の子どもをもつお母さんは、できるだけ自分の手で工夫して料理をするようにしましょう。
からだを100%使って、精一杯の努力を惜しまないのは一生に一回、この時期だけです。しかも大事なことは、この時期に100%力をだし切る全力投球の経験をした子どもは小学生以後、何事にも力をだし切ることができます。ところが、幼児期に100%の力をだし切って全力投球でがんばる経験をしなかった人は、小学校以上になってから、とことん最後まで努力をするという粘り強さに欠けます。能力はあるのに、100%の努力をしないで、「もう、ここらでいいわ」と切りあげます。
現代のように、道路も庭も家屋も狭く、危険に満ちていると、子どもだけでは、思いっきりからだを使い切るような遊びや機会をつかむことはできないのです。今は子どもが健全に育つには適さない生活環境であることを大人がわかって、子どもが「大きな動き」をすることができる状況を大人が意識して作る努力をしなければならない時代であることを自覚しましょう。
家庭の中で、「タオルを絞る」「雑巾でふく」「ほうきではく」「パパの車をみがく」「大きなゴミ袋にゴミを集め、口を結び、捨てに行く」などを、責任をもってする、という習慣をつけることは、幼児期には塾や教室通い以上に、頭脳や運動能力を身につけるうえで重要なことです。

家の中にあるおもちゃを整理して、
もっと本当に子どもが望んでいる環境をつくってあげたいと思った。
自分が幼いころは、夕方までは勝手に近所の友達や公園であそんで、夕方になれば勝手にかえってきた。
でも現代では、車が危ないし、治安の問題もあって自分が幼いころに遊んだようには、遊べない。
人が多すぎるところに住んでいるからなのか。駅から近すぎるのか。
田舎や海外に引っ越そうかと、真剣に悩む。

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