嫌われる勇気

自己啓発の源流「アドラー」の教え

10年前、いや20年前に読んでおきたかったと思う一冊。
そして、年頃になったこどもたちに、
妻にも贈りたい、そんな一冊。


●原因論 = 言い訳 から 目的論 = 進歩へ

・トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入口なのです。あなたはそんな価値観をお認めになりますか?
・われわれの自由意志を否定し、人間を機械であるかのように見なしているのは、むしろフロイト的な原因論なのだと理解してください。
・しかし、はたしてそうでしょうか。実際のところは、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいのです。人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。時間さえあればできる、環境さえ整えばかける、自分にはその才能があるのだ、という可能性のなかに生きていたいのです。おそらく彼は、あと5年10年もすれば「もう若くないから」とか「家庭もできたから」と別の言い訳を使いはじめるでしょう。
・どうして赤面症は治らないのか。それは、彼女自身が「赤面という症状を必要としている」からです。
・彼女にとって、いちばん怖ろしいこと、いちばん避けたいことはなんだと思いますか? もちろん、その彼に振られてしまうことです。失恋によって、「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。
・そんな事態に巻き込まれるくらいなら、最初から誰とも関わりを持たないほうがましだと思っている。つまり、あなたの「目的」は、「他社との関係のなかで傷つかないこと」なのです。
・フロイト的な原因論では、これを「親がんな育て方をしたから、子どもがこんなふうに育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。植物に水をあげなかったから、枯れてしまったというような。たしかにわかりやすい解釈です。しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、いまの目的(親への復讐)をかなえるために。

今まで自分はずっとアドラー的な考え方をして生きてきたと思う。
けど、心のバランスを崩してしまった人を間近にしたとき、
どうしてそういう考え方しかできないのか、その心の癖を探る中で、
それらがトラウマに起因するという事例をたくさんみて、感じてきた。
しかし、一歩、深みが足りなかったことに気づいた。
それは確かに原因ではあるかもしれないけど、
根本原因ではなかったということ。
根本原因は、「目的」にこそある。
まわりまわって、アドラー心理学に戻ってきた感じだ。
心理学を、単なる言い訳の状況説明に使ってはならない。
アドラー心理学は、その先に進む実践的な心理学だと言える。
●見かけの因果律<原因論の派生

・アドラーは「見かけの因果律」という言葉で説明しています。本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。問題は、そうした現実にどう立ち向かうかなのです。もし「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考えているとすれば、それは「成功できない」のではなく、「成功したくない」のだと考えなければなりません。単純に、一歩前に踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。いま享受している楽しみ – たとえば遊びや趣味の時間 – を犠牲にしてまで、変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える”勇気”を持ちあわせていない。多少の不満や不自由があったとしても、いまのままでいたほうが楽なのです。

成功恐怖症という言葉があるけれど、
実はそうなのかもしれない、という話。
ただ、この話にピンとくるかどうかは、その人の状態によるんだろうな。
今の自分にはそれが、よくわかる。
●劣等性と劣等感の違い コンプレックスの意味

・あなたもいま、さまざまな劣等感を抱え、苦しめられているのでしょう。しかし、それは客観的な「劣等性」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。身長のような問題でさえも、主観に還元されるのです。つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのだと? そのとおりです。
・注意してください。現在、わが国では「コンプレックス」という言葉が、劣等感と同義であるかのように使われています。ちょうど「わたしは一重まぶたがコンプレックスです」とか「彼は学歴にコンプレックスを持っている」というように。これは完全な誤用です。本来コンプレックスとは、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態を表す用語で、劣等感とは関係ありません。
・劣等感それ自体は、別に悪いものではない。アドラーもいうように、劣等感は努力や成長を促すきっかけにもなりうるものです。一方の劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のことを指します。日常生活のなかで「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇に収まりません。劣等コンプレックスです。

●劣等コンプレックスから優越コンプレックスへ

・自らの劣等コンプレックスを言葉や態度で表明する人、「AだからBできない」といっている人は、Aさえなければ、わたしは有能であり価値があるのだ、と言外に暗示しているのです。
・劣等感についてアドラーは「劣等感を長く持ち続けることに我慢できる人は誰もいない」と指摘しています。欠如した部分を、どのようにして補償していくか。もっとも健全な姿は、努力と成長を通じて補償しようとすることです。たとえば勉学に励んだり、練習を積んだり、仕事に精を出したりする。しかし、その勇気を持ちえていない人は、劣等コンプレックスに踏み込んでしまいます。いまはたまたま学歴という蓋に覆い隠されているけれど、「ほんとうのわたし」は優れているのだと。
・劣等コンプレックスは、もうひとつの特殊な心理状態に発展していくことがあります。
・たとえば、自分の手柄を自慢したがる人。過去の栄光にすがり、自分がいちばん輝いていた時代の思い出話ばかりする人。あなたの身近にもいるかもしれませんね。これらもすべて、優越コンプレックスだといえます。
・劣等感そのものを先鋭化させることによって、特異な優越感に至るパターンで。具体的には、不幸自慢ですね。生い立ちなど、自らに降りかかった不幸を、まるで自慢するかのように語る人。そして他者が慰めようとしたり、変化を促そうとしても、「あなたにはわたしの気持ちがわからない」と救いの手を払いのけるような人です。こうした人たちは、不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。
・病気になったとき、怪我をしたとき、失恋で心に傷を負ったときなど、少なからぬ人がこのような態度によって「特別な存在」であろうとします。自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、周囲の人々 – たとえば家族や友人 – を心配させ、その言動を束縛し、支配しようとしている。

誤った成功哲学、誤ったポジティブシンキングは、
この優越コンプレックスを生み出す。
現象をありのままに見て、ただ成長を目指す科学的な姿勢は、
とても仏教的だと思う。
重要なことは「諦」・・・明らかにみること。
●自己需要は自己肯定とはちょっと違う

・他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「なにをしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。
・自己肯定ではなく、自己受容です。両者には明確な違いがあります。自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と自らに暗示をかけることです。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方であるともいえます。一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自らに嘘をつくものではありません。60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、ほんとうの自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定です。それに対し、60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容になります。

そう、つまりそういうこと。
子どもに対して誤った励まし方、慰めをしていなかったか、
もう一度自己点検してみる必要があると感じた。
●健全な劣等感 健全な優越性の追求

・「優越性の追求」とは、自らの足を一歩前に踏み出す意思であって、他者よりも上をめざさんとする競争の意思ではありません。
・健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

劣等感は持っていてもいい。
こういうことを明確にいう人は少ない。
本当に、そのとおり。
●他人との比較・争いをやめる

・「我慢する」という発想は、あまたがいまだ権力争いにとらわれている証拠です。相手が闘いを挑んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。相手のアクションに対してリアクションを返さない。われわれにできるのは、それだけです。
・怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。
・人は、対人関係の中で「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。

結局すべて勝ち負けで考えるような人というのは、
心が未成熟な、子どもだということ。
●真実の愛

・アドラーは、相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。それが愛なのです。互いを束縛し合うような関係は、やがて破綻してしまうでしょう。積極的に浮気を肯定しているわけではありません。一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べない。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。劣等感を抱くでもなく、優越性を誇示する必要にも駆られず、平穏な、きわめて自然な状態でいられる。ほんとうの愛とは、そういうことです。一方の束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えでもあります。
・恋人や夫婦の関係では、ある時期を境にして相手のやることなすこと、すべてに腹が立つようになることがあります。食事の仕方が気に食わないとか、部屋にいるときのだらしない姿に嫌悪感を抱くとか、あるいは寝息でさえも腹が立つとか。つい数カ月前まではなんとも思っていなかったにもかかわらず、です。これはその人がどこかの段階で「この関係を終わらせたい」と決心をして、関係を終わらせるための材料を探し回っているから、そう感じるのです。相手はなにも変わっていません。自分の「目的」が変わっただけです。

いろいろな人がいろいろな心理学の中で、この話を引用しているように思う。
そして、男女の話にまでアドラーが言及しているのがちょっと驚きだ。
バシャールなども話す新しいセクシャリティの考え方は、
このあたりの考え方が鍵になるような気がしている。
●悩みはすべて人間関係

・孤独を感じるのは、あなたがひとりだからではありません。あなたを取り巻く他者、社会、共同体があり、そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。われわれは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。すなわち人は、社会的な文脈においてのみ、「個人」になるのです。
・アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とまで断言しているのですから。

確かに、すべての悩みは、アドラー心理学を学ぶことで、
きっと消えてしまうのだろうなとさえ、思える。
というのは、自分はとくに今までアドラーという名前を知らなかったけど、
アドラーがいうのと全く同じようなマインドセットで育てられてきた。
そして、人間関係に関する悩みは、ほとんどない。
それが、証明だと、思える。
ということはまた、親として自分が子どもたちに何を伝えていくかについても、
これでいい、ということでもある。
体系的な話にまとまっているので、アドラーを教えるのが、とても早そう。
とてもいいツールをみつけた感じだ。
●アドラー心理学の目標

・アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、かなりはっきりとした目標を掲げています。まず、行動面の目標は「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」の2つ。そしてしこの行動を支える心理面の目標が「わたしには能力がある」という意識、それから「人々はわたしの仲間である」という意識です。

社会との調和それ自体を目的とすると、国家の操作主義を想像してしまう。
ここは、社会との調和というより、その先にある貢献感がもたらす
自己受容という風に説明しなきゃダメだと思う。
●承認欲求を捨てて自由になる

・アドラー心理学の大前提をお話しましょう。アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。
・適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。
・きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
・われわれが他者をほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子どもを操作するためだからなのです。
・人は他者からほめられるほど、「自分には能力がない」という信念を形成していく。よく覚えておいてください。ほめることとは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」なのですから。
・一方、「ありがとう」は評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉です。人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。アドラー心理学ではこの「貢献」という言葉を非常に重く考えます。

これを読む限り、アドラーとゴードンに差を感じない。
ゴードンがいう「アドラーにおける自然的結末」の話のところは、
やはりアドラー自身の著書を読まないとわからないのだろうか。
どちらも素晴らしいとしか感じない。
●承認ではなく、自己受容から得られる貢献感を

・人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。この現実に対して、アドラーはきわめてシンプルな回答を用意しました。すなわち、「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれるのだと。そしてここが大切なのですが、この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわないのです。あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。つまり他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。
・貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望み通りの人生を歩まざるをえません。承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。われわれは自由を選びながら、なおかつ幸福をめざす存在なのです。
・ほんとうに貢献感が持てているのなら、他者からの承認はいらなくなります。わざわざ他者から認めてもらうまでもなく、「わたしは誰かの役に立っている」と実感できているのですから。つまり、承認欲求にとらわれている人は、いまだ共同体感覚が持てておらず、自己受容や他者信頼、他者貢献ができていないのです。

子どもたちにとっての共同体とは、なにか。
まず何よりも家庭なのだろうと、思う。
そして次に学校。
でも、普段から世の中をみて、社会との関わりが多い子どもほど、
「より大きな共同体」を認識しやすい。
その意味で、旅行やいろいろなコミュニティと触れることは
とても重要なことなんだと、改めて思った。
子どにとっての世界が、学校がすべてにならないように、
しておいたほうがいい。
●課題の分離

・誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
・他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。

ゴードンモデルの行動の四角形の分離をより明確にした感じがする。
ただし、どちらも矛盾があるとは感じず、補完しあっているように思える。
どちらにフォーカスするか、という違いであって、
対立するような話ではないような気がする。
●操作主義を捨てる

・原因論で「殴られたから、父との関係が悪い」と考えているかぎり、いまのわたしには手も足も出せない話になります。しかし、「父との関係をよくしたくないから、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードはわたしが握っていることになります。わたしが「目的」を変えてしまえば、それで済む話だからです。
・わたしは「父を変えるため」に変わったのではありません。それは他者を操作しようとする、誤った考え方です。わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できるところではない。これも課題の分離ですね。もちろん、わたしのの変化に伴って – わたしの変化によって、ではありません – 相手が変わることはあります。多くの場合、変わらざるをえないでしょう。でも、それが目的ではないし、変わらない可能性だってある。ともかく、他者を操作する手段として自分の言動を変えるのは、明らかに間違った発想になります。
・対人関係というと、どうしても「ふたりの関係」や「大勢との関係」をイメージしてしまいますが、まずは自分なのです。

ここを明確に書いているあたりが、とてもすばらしい。
商業主義的ななんちゃって心理学、なんちゃって成功哲学
との違いは、この辺だろうな。
●どこに貢献するのか より大きな共同体の声を聴け

・あなたもわたしも、世界の中心にいるわけではない。自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。
・覚えておいてほしい行動原則があります。われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。
・もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。目の前の小さな共同体に固執することはありません。もっとほかの「わたしとあなた」、もっとほかの「みんな」、もっと大きな共同体は、かならず存在します。
★共同体、つまり他者に働きかけ、「わたは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。

この文章を読んで、
ソースのワークショップを受けたときに感じたこと、
その理由というか感覚が、論理的にクリアに理解できた。
自分は今の職場で、少なくとも承認という意味でも評価されてるし、
仮にそれがなくても、役に立っている・もっと役に立てるという自信もある。
なのに、ワクワクしない。これはなんなのか、と。
どういうことかというと、
自分はもう「もっと大きな共同体」の役に立つべき時がきた
ということなんだと、、直覚した。
だからなんだ。
だからワクワクしないんだ。
●信用ではなくて信頼する

・「信じる」という言葉を、信用と信頼とに区別します。まず、信用とは条件つきの話なんですね。英語でいうところのクレジットです。「あなたが返済してくれるのなら貸す」「あなたが返済可能な分だけ貸す」という態度は、信頼しているのではありません。信用です。これに対して、対人関係の基礎は「信用」ではなく「信頼」によって成立しているのだ、と考えるのがアドラー心理学の立場になります。他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。担保のことなど考えずに、無条件に信じる。それが信頼です。
・ありのままの自分を受け入れ、「自分にできること」と「自分にはできないこと」を見極めることさえできれば、裏切りが他者の課題であることも理解できるし、他者信頼に踏み込むこともむずかしくなくなるでしょう。

子どもを信頼しているか。
それとも信用しているか。
親子関係は、契約ではないのだ。
●いまここ 普通であることの勇気

・もし、あなたが「普通であることの勇気」を持つことができたなら、世界の見え方は一変するはずです。あなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。普通であることとは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。
・もしも人生が山頂にたどり着くための登山だとしたら、人生の大半は「途上」になってしまいます。つまり、山を踏破したところから「ほんとうの人生」がはじまるのであって、そこに至るまでの道のりは「仮のわたし」による「仮の人生」なのだと。では、仮にあなたが山頂にたどり着けなかったら、あなたの生はどうなるのでしょう。
・ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいいのです。ダンスにおいては、踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しようとは誰も思わないでしょう。目的地は存在しないのです。
・遠い将来に目標を設定して、いまはその準備期間だと考える。「ほんとうはこれがしたいけど、やるべきときがきたらやろう」と考える。これは人生を先延ばしにする生き方です。人生を先延ばしにしているかぎり、われわれはどこにもいけませんし、味気ないモノクロームの日々が続くだけでしょう。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。
・アドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続けています。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。

田坂さんの仕事の思想でも語られていた「成功」ではなく「成長」
そして「人生に意味がない」という表現は、
そういえば本田健さんの本でも目にしたばかりだ。
プライミングであるとかの時間を超越する生き方も、全部共通。
このあたりの哲学思想が、科学的に証明される日も遠くないだろうな。

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