幸せな子ども

可愛がるほどいい子になる育て方
シュタイナー教育思想に導かれ生まれた家庭育児書
あたり前で平凡…あなたが読み取ることで、それは非凡になる。

おそらく出版社がつけたであろう、
この本の帯のキャッチコピーはともかくとして、、
内容は、とても素晴らしい。★5つという感じ。
「七歳までは夢の中」を読んでから、
ずっとこの方のことが気になっています。
いつかお会いしてみたい方の一人。

●自分の頭で考える。自分自身の親としてのあり方を生きる

・母は働いて自分らしくしていられるようになって初めて、機嫌よくゆりかごを動かせるようになりました。専業主婦時代は自分の不幸に夢中で、むしろその余裕がなかったのだと思います。どういう状態のとき自分が幸せで、楽しくゆりかごを動かすことができるかを、母が自分に問うてくれてよかったです。でもそこから出した結論は個人のものであって、他の人に当てはめることはできません。そこを間違えると自分だけが正しい気持ちになって、働く人を母親失格の冷血漢にしたり、主婦を無責任な馬鹿扱いしたりといった、不毛な差別合戦が始まります。どちらも自分が持てなくて相手が持っているものが羨ましいのだと思いますが、あれは悲しいものです。
・おかあさんでない人を、一人っ子のおかあさんを、女の子(男の子)しか持たないおかあさんを基準の外に弾きだしたら、チョット偉くなった気持ちが味わえますが、それだけのことです。本当に困るのは、資格取得組で経験至上主義者で、自分たちのスタンダードに合わない人を軽視する親たちに育てられた子供です。彼らが基準のなかにいる間はいいですが、そこからはずれたときの無事が危ぶまれます。おかあさんが基準外の人に心を閉ざすなら、その狭く閉ざされた視野が、やがて自分の子を縛ることになるからです。
・「授乳は三時間おきとか、断乳とか、おむつ外しとか、そういうことは、生産性を上げるための都合です。工場で働く奴が、ちょこちょこ食べないと生きていけないようでは困る。さっと食べてさっと就労できるように、あかんぼの頃から食のしつけを始めているのです。このように経済がわからなくなって、生産性は上げないほうがよいかもしれなくなってきた現在、育児の『こうしなければならない』も、見直してよいのではないですか」「ある日突然授乳をやめねばならないという歴史は浅いのです。大事なことは、子どもとおかあさんが幸せかどうかです。おっぱいが出る間は、五年でも十年でもやっていいと思いますよ」。

みんな、不安の中で生きている。
自分が正しいと思いたいし、間違ってるとは思いたくない。
安心のために他人の目を気にして、
他人の判断を鵜呑みにして、
自分で考えることを放棄してしまう。
とはいっても、自信を持て といって持てる人は稀。
自信をもつためには、どうすればいいのか、それが大切。
人事を尽くしたといえるほどの努力と覚悟だろうか。

●母親の仕事

・おかあさんの大事な仕事の一つは、子どものそばで機嫌よく暮して、心の目を高みに向けることかもしれません。
・気持ちの波はありますが覚悟を決めて、地味な暮らしのなかに喜びを見いだそうとして淡々と働いて毎日を送るとき、心の眼は高みに届きます。今の私が十五年前よりは多少なりともましになれたとして、その因るところは家事育児の地味に仕事をしていて「さえ」でなく、地味に仕事をしていたから「こそ」の気持ちが強いです。子どもの身柄を引き受け、子どものそばにいることによって矯められ、強くなったからです。
・親が子どもの側で、幸せでいようと決めて幸せに過ごしている間に、その子が大人になったときの幸せの核を育てていると思います。
・「子どもを産むたひに、その子をかわいいと思う気持ちを100ずつもらえるんだね」。それは母が最初から400の愛情を持つ人だったからではなくて、「一人産むたびにもらった」というのが、なるほど私も複数の子を持ってみて、実感としてわかりました。
・子どもが自分の全存在をかけて質問してきて、答え次第では絶望も覚悟しているのが見えたときは、親はどんなに武骨な答えでもいいからね自分の頭で考えて答える必要があるでしょう。
・そうでした。あのときあかんぼと一緒に、専属の守護の天使が降りて来たと思います。天使は子どものボディガードになり、「なんてかわいい」と笑いかけてくれるゆきずりのおばちゃんになり、親切な隣人になり、歯の妖精になり、サンタになりました。この先、子どものなかで妖精やサンタが完全に消えても、賢い友達や敬愛する先生のなかに、憧れの異性のなかに、姿を変えた天使を見いだしていくことでしょう。

この、天使の考え方、とても好きだ。
小さい頃からサンタを信じていなかった私でも、
それが天使の姿の一つなんだろうと思うと、
とても幸せな気持ちに包まれる。

●あかんぼが生きやすい環境

・「うるさいよ。泣いちゃ駄目。隣の人が眠れないよ。うるさいってば」。彼女は、隣室の私に気を使って、あかちゃんを叱っていたのでした。そんなことは、言えばお互いさまです。「隣人の大人をかばう」という大和撫子敵おこころづかいがまるでなかった私は、その発想に仰天しました。今はとにかくこの世に出てきたばかりで、不安に取り巻かれているあかちゃんだけに、気を使っていればいいのです。私に遠慮するなんて、彼女の気の使い方は絶対にゆがんでる!! と思いました。…あっそうか、家に帰れば不機嫌な舅、姑、小姑、夫の安眠を死守せねばならない苦悩の日々が待ち構えていて、その練習をしているのかもしれないと想像しました。
・大人のための静かな場所に幼児を連れていって、「迫害された。ひどいことだ。人類の子どもなのに」と言う人は、単なる身勝手の不作法だと思います。産院や自宅のベッドで泣くあかんぼを責める大人も、身勝手の不作法だと思います。それがあかんぼの表現法の第一段階だからです。表現法の第二段階は多分、病気という形を取ってくると思います。他に方法がないからです。あかんぼが堂々と「あかんぼできる」場所に置いて、あとは体力も忍耐力も克己心も数段勝る大人が譲らなくてはしょうがないという、基本的な申し合わせをしなくちゃなーと思います。

最近、電車だとか飛行機で、あかちゃんの鳴き声に対してどう考えるべきか、
という議論があちこちで起こっているけれど、
そもそも電車や飛行機は、赤ちゃんが受け入れられている場所なのかどうか、
というところに、その本質があるように思う。

●甘やかし と かわいがり

・例えば子どもが夕方「もっと遊びたい!」とごねたときの答えを、イエスかノーかの二者択一速答方式に限定すると、結果は常にノーになって、苦しいです。…めざす人は、「ホント、遊びたいよねー」とつくづく困った顔でため息をつくことでしょう。演技じゃありません。おかあさんは本当に困っているのです。かわいいあなたが遊びたいなら遊ばせてあげたいけれど、これまで生きて知った、太陽と、地球の運動と、人間の体内時計の関係から言わせて頂くと、もう切り上げたほうが明日遊びやすい。だから従ってもらうけど、悲しいね、ゴメンネという気持ちが「ホント、遊びたいねー」に込められているのです。子どもは案外聡くそのあたりを読み取って、「わかってんなら、ヨシ」と許してくれます。「ホント、遊びたいねー」と言ってるうちに、自分も遊びたくなって、五分だけ地面に下りて、家の周りを一歩きする夕方もあるでしょう。それは「甘やかし」でなくて、「かわいがり」です。
・あなたは大事な人に優しくされたらつけあがりますか? 嫌いな人と損得で付き合う場合はそうかもしれませんが、好きな人とそういう関係になることは、ちょっと考えにくいです。優しくされたら普通、「そうだ私も謙虚になって、相手を喜ばせよう」と思います。「客観的に見ておかあさんの出来が多少悪くても、そんなことは知ったことか。おかあさんがおかあさんできるというだけで、おかあさんが大好き」と思ってくれる、世にもありがたい相手との幸せな時間に、「優しくすればつけあがる」なんていう世俗的な心配を忍び込ませるのは悲しいです。
・必要なものを与えるのがかわいがりで、余計なものを与えるのは甘やかしと理解しています。子どもがかわいがられていて、なおかつ甘やかされていないときに、誇りが育つと思いました。

確かに、優しくすると調子に乗るとか、つけあがるとか、
そんな寂しい言葉をよくきく。そういう人は多分、
かわいがることと甘やかすことの区別がついていないのだろう。
なお、褒めるというコントロールは、甘やかすと似たような効果を持ちそう。
かわいがることは、たくさんたくさんしていい。
共感能力さえあれば、自然にわかることだと思うのだが。。

●叱ることについて

・子どもの自制心はすぐには育ちません。まずこちらが自制心を用いて接すれば、子どもの自制心も育ちやすくなるでしょう。子どもはまだ何も変えなくていいのです。変わらなくてはいけないのは私たち親です。親になったからには自らの想像力と自制心を鍛えて、子どもを一生懸命かわいがるのが、本筋だと思います。
・私はそのとき思いました。先生はとても大きいんだと。大人で、シャンと立っていて、プライドが高いから、子どもと同じレベルでギャンギャン怒るようなことは、決してしないのです。これがプロなのでしょう。
・あるときふとボストンの先生を思い出して、子どもに注意するときは、最初と同じ言葉を、最初と同じトーンを保って繰り返すことにしました。すると子どもの耳に私の言葉が「ほんとうに」聞こえるまでの回数は、怒りながら告げたときと変わらないか、むしろ少ないように感じました。私自身の疲労感は怒ったときに比べてぐんと少なく、「ありがとう」を言う余裕さえ出てきます。
・冷静に叱るのは親切であり、ノーをノーと言うのは親の務めです。いつも同じ条件で、過去のことは持ち出さないでその場で叱るようにします。
・「たまらなくかわいい子のバックには、すっげーやさしいおかあさんが控えている」という彼らの図式は、多分正しいです。かわいがられつけた子には、「かわいがられ癖」とでも呼びたいオーラが漂っていて、こちらのかわいがりたい気持ちを、強力磁石のようにびゅんびゅん吸い付けます。

本当に、キーキー言っている親は、多い。
子どもに共感し寄り添うということと、
子どものレベルになってしまうということは、違う。
親は親なのだから、親としての役目を果たす必要がある。
たまにそうなるのはともかくとしても、
いつも感情的になってしまうようでは、子どもがかわいそう。

●体罰について

・自分で自分の心の主人になれない、不自由な人間をつくるには、暴力が最適のようです。「ぶたれる。痛い。やめる」で何にも考えない大人を作るか、「こういうことはよくないから自分でやめる」と判断できる大人を作るか。子どもの前の私たちは、手を上げたくなる気持ちに流されるか、ふみとどまるかの瀬戸際で、その都度重大な岐路に立たされているのだなあと思いました。
・育児雑誌をのぞいてみると、普通のおかあさんの間に子どもに対する某呂くが広がっていることを、母親自身が告白し、「私ってこんなに駄目なんです。もうどうしていいかわかりません」と訴えています。回答者は「おかあさんも人間です。間違ったこともします。気にしない気にしない」と言っています。答えがそこでおしまいにしてあるので、「あ、これでいいのね。そうよそうよ、母親だって人間性の回復よ。やりたいようにやって何が悪いの」といういことになって、明日の子どもは今日以上の暴力にさらされて行く感じを持ちました。その先の一番大事なところ、「さて、明日の私はどうしよう」という場面で本当に親身になろうとするならば、「明日はあなたの克己心を、一日分だけ育てましょう」と言ってあげるべきではないでしょうか。そこまで書くと雑誌のトーンが辛気臭くなるため、書かせてもらえないのでしょうね。「最近のおかあさんはわがままになった」のではなくて、「おかあさんの克己心を思い出させない記事を書けば売れることが、数年前に発見された」のだと思います。売るための親身打ち止め策を真に受けさせられて、たまるかってなもんですよね。なぜなら育児雑誌のおかあさんの投書を注意深く読んでみると、「誰か私にこれでいいって言って」で終っていません。「こういう自分が本当に悲しい。賢くかわいがられたらどんなにいいか」という切実な、心優しい願いを読み取ることができます。やっぱりここは「克己心にハタキをかけて、お互い明日に備えましょ」と励ますのが親切だと思います。
・大人の身体の大きさは大体子どもの倍以上だから、大人同士なら回数を倍にするのが正しい…子どもは笑いますが、私は本気です。夫と私は、子どもを殴りません。

体罰などという卑怯な手段は論外だけど、
私には、言葉の暴力もまた、二倍返し、三倍返しにするに値すると思える。
子どもは、とても傷ついている。

●いじめの本質

・いじめの問題は、「親である私たちのなかにある意地悪な視線が、グロテスクに拡大された形で子どもたちの間に出てくる」とい事実を、棚に上げて考えることはてできません。クリクリ坊主頭を見て「まあ、変ね。どうしたのかしら。妙な理由でもあるのかしら」と、口に出さないまでも心のなかで意地悪な想像を始めた大人の気配を、ピンとかぎとった子どもたちが「変、変」とやり始めるのでしょう。それを聞いた大人が「しいっ、そんなこと言わないのよ!」とあわてて叱っても、嘘はバレバレです。大人が「ちっても変じゃない」と了解していることについて、子どもがはずみで「変」と言い始めても、それは自然に立ち消えになります。
・「みんなと違う僕は、水晶」。なんとシンプルで明快な答えでしょうか。気に入りました。
・「あなたは大事な子」だけでは片手落ちと言えるでしょう。「大事なあなたが幸せに生きるためには、周りの人も大事にされなくてはいけない。まず私があなたのお友達を大事に思う」というところから始めたいのです。

この洞察は、とても深い。
いじめのあるところに、必ず親や周囲の大人の差別意識が、ある。
私も、無意識のうちに、このような意識をもっていないか、
子どもに悪い影響を与えてしまっていないか、心の点検をしようと、反省した。

●絵本よりも…

・あかちゃんに絵本はいりません。いるのは両親の落ち着いた優しい声と、小さな歌声と、小鳥の声や虫の声、普通の生活音、そして静けさです。あかちゃんにどうしても絵本をプレゼントしたいなら、ぱらぱらーとめくって遊べるもの、なめても毒が溶け出さないもの、破られても腹の立たないものがよい絵本です。我が家では『いないいないばあ』の絵本を子どもが喜んでびりーっと破るので、セロテープのつぎはぎだらけで、二冊目を買ったらそれもボロボロに消滅し、楽しい思い出が残りました。
・所詮絵本は「おはなし」のできない私のような者のための、方便にすぎません。おはなしができるなら、そのほうがずっといいのですって。おしなしを聞いて育った子どもは、大人になるとおはなしを語れる人になるそうです。
・伝達の手段として、便宜的に活字に固定されたものを、唯一の正解として崇めてしまった母がかわいそうです。今では「おはなしの本当の姿は素手のお話で、それは話し手の数と同じだけある」とされています。ぜひおはなしをしてあげてください。おはなしの種が尽きたら、絵本にヒントをもらってください。
・絵本は大人が自分の楽しみのために読んで、子どもはそのおこぼれに預かるだけと考えた方が、バランスが取れます。

本当にそう。
絵本は、親が学ぶことの方が多い気がする。
たくさんたくさん読んできて、本当に心の底から、そう思う。

●おもちゃと環境

・シュタ部屋…そこで遊んでいたら、テレビを見る暇がなくなり、同じ私立幼稚園に通うお友達を巻き込んで、放課後を待ち焦がれる楽しい遊び場になってしまったということです。それを実現したのは普通のおかあさんです。
・「子どもが使わなくなったら、私のものにしたい」と思える玩具を買いましょう。

何もシュタイナーを全面にかかげる幼稚園でなくても、できることはたくさん、ある。
但し、外に出ている私には、子どもにかかわれる時間が圧倒的に少ない。
それが、とても残念だ。
こどもが小さいうちだけでもいいから主夫になりたいと、本気で思う。

●生活習慣

・学校が休みの日は、朝食後に皆で家事をします。
・まず、週日の一番大事な仕事は睡眠時間を確保することと考えて、寝る時間を決めます。次に大事なのは、ご飯とお風呂です。それらをきちんとさせるためには、説得力となる遊び時間が必要です。
・子どもはいずれ家を出ていくでしょうから、ご飯を食べながらおしゃべりできる週末が、永遠に続くわけではありません。「そんなこと知ってると思ってた」ということが、案外子どもに伝わっていないことが多いので、今のうちに意識して話しておこうということになりました。大人になった彼らが、話の内容を全部覚えているとは思えませんが、おしゃべりの楽しさを覚えていてくれるといいなと思っています。

最近、娘の睡眠時間が短くなっているのではないか、
また、一緒に遊べる時間、一緒に食事ができる貴重なこの時間について、
ありがたみを忘れかけているのではないかと、反省した。

●テレビの害

・子どもは身体のどこか一点を緊張させたら、全身に力が入ってしまいます。テレビを見るときは正座せんばかり、食い入るばかりに見入って、好きなお菓子を食べる口も止まります。体に触ってみると堅く緊張して、冷たい感じで、触られたことに気づきもせず、「向こうの世界」に入ってしまったように見えます。本来三次元の動きをする視線を、奥行きのない二次元のテレビ画面のなかに閉じこめておくと、目の筋肉は不自然な緊張を強いられて、子どもの全身はこわばったようになります。大人のように「集中力の分散」ができないからです。
・想像してみてください。いたいけな子どもが刺激の強い虚像に翻弄されて、泣ける間はまだしも、やがてそれに慣れ切ってしまうのは、恐ろしいことです。刺激に動じないよう、隣人の喜怒哀楽に心を閉ざすよう、テレビを使って一生懸命教育していることになります。おかあさんが笑えば、何がおかしいかわからなくても笑ってしまい、友達が泣けば自分も悲しくなって泣いてしまうような、よく働く柔らかい心を、子どもは本来持っています。テレビのお友達にも、最初は相づち打ったりお返事したりしていますが、一方通行であることをすぐに学習して、聞き流すようになります。小学校に入ってから「なんでこの子は、先生のお話をちゃんと聞かないのかしら」とイライラしたら、小さいときからテレビによって聞き流し癖を学ばせた自分に怒って下さい。
・「テレビを見ないと仲間はずれにされる」という心配 そういう考え方こそが、「みんなと違う奴は、仲間はずれにされたってしょうがない」と子どもに思わせる遠因になってはないでしょうか。つまり「本当はお前にテレビを見せたくなかったけれど、仲間はずれにならないようにと思って、我慢して見せたんだ。そういう努力をしてこなかった奴は、仲間はずれにしてやれ」と言っているように聞こえます。自分がまっさきに、意識的に「人と違う」をやってしまえば、みんなと違う誰かをいじめようという発想は、出てこないと思います。
・もしもテレビをやめようと思ったら、テレビを頑張って我慢するのではなくて、「子どもの楽しい遊びを考えてそれをやっていたら、テレビを見ている暇がなくなった」というのが、実際のところではないでしょうか。バツを避けるのに頑張らないで、マルを探して楽しくやりましょう。
・「状況」を作るチャンスは、たいていの場合、女ががっちり握っている! 子どもが嫌がっているものを、むりやりテレビの前に座らせて「見なさい」と命じたくなるような番組が、そうあるわけではありません。おとうさんも、他の遊びに忙しい子どもの手を止めさせてまて、見せようと思っているわけではありません。子どもの生活コーディネイトを任されているおかあさんが、テレビよりおもしろい遊びを子どもに持たせることによって、おとうさんを悪者にしないですみます。
・あるバイオリンの先生が、「テレビやCDをつけっぱなしにしないでね。耳が悪くなるから」とおっしゃり、外国暮しの長いピアニストのエッセイに、「音の洪水のような日本にいると、自分のなかの『音』がどんどんなくなっていく気がする」とありました。音楽家は、「静けさ」が軽視されていることに、危機感を抱いているのでしょう。それは一般の子どもたちにも大事なことのように思いました。

そう。仲間はずれにされてしまうから、などという心配は不要なのだ。
それは、子どもと接する時間を「節約」しようなどという寂しい発想をもつ人の話。
真剣に子どもと楽しく遊んでいれば、テレビの知識などなくても、
子どもはきっと、十分すぎるほどにおもしろ存在価値を出すことが、できる。
うちの場合は妻の方がテレビっ子なので、そこが悩みどころ。。

●ゲーム

・我が家では子どもが小さい間は、「ゲームは子どもの生の体験を貧しくするからやらせない」ということで、夫婦の意見は一致していました。
・ゲームソフトを欲しがるときはお金だけ渡して、「これで機嫌よく暇つぶししてくれるなら、私は楽」と思っていませんか。中身も知らずに「子どもがやりたいと言ったからやらせた」というのは、見知らぬ他人に子どもを預けっぱなしにするようなものてす。
・反射神経を磨くならば、スポーツの方がよほど健康的です。この路線のゲームであえて楽しいと思うのは、「フライトシミュレータ」です。
・小学校の三年生以下では以上の議論はなりたちません。九歳以下の子どもには、コンピューターゲームなど論外だと思います。

iPadを買おうかまよったけど、
そう、確かに9歳とか12歳とか、ある程度の区切りができてからでいいかも。
私がファミコンをしたのも、確か10歳前後だったような気がする。

●習いごとと学習

・敬愛できる先生が見つかったとき、その習いごとはほぼ成功です。
・子どもらしさをたたえるのはおそらくよいことなのでしょうが、その方法にはよほど注意しないと、善意によって繊細なものを壊してしまうことがあります。賞のない昔、子どもが素敵なことを言ったりしたとき、両親は誉めことばを胸にしまって、百人分の賞賛に値する愛情を子どもに注いで来たと思います。
・三行日記も続いています。彼は青インクの中字万年筆で三行弱書いて、私は余白に小さく黒インクの細字万年筆で返事を書きます。
・「読み書き」は学校のペースで、「聞く話す」は主に家庭で勉強することにして、週末の夕食時に、テーマを決めてお話会をしています。
・「勉強だけは絶対怒っちゃダメよ。他のことは各家庭のしつけだから、叱ろうが怒ろうが私が口出すことじゃない。だけど勉強は、叱られてするものではないからね。勉強が大嫌いになっちゃうよ。だけで賞めすぎてもいけない。あまり賞めると『いいところだけ見せれば、おかあさんを喜ばせられる』と学習してしまって、悪い点を取ったときに見せなくなるの。そういうときこそ助けが必要なのだから、親に見せてほしいでしょ。だから、賞めない叱らないが大事」
・算数の教科書の読み比べをしたことがありますか?友達が東京の本屋さんで何冊か見て、一番いいと思ったのを買ってきてくれました。啓林館の教科書です。
・「小学校に上がった頃から歴史マンガが家にあったから、退屈なときに何回も読んだだけ」
・「間違えるのは恥ずかしいことではありません」。そう言われたって、恥ずかしいのです。黒板でさらしものにされて「どこが悪かったか、みんなで話し合い」のネタにされるなんて、やっぱり嫌なものです。一度で十分です。正しい答えが「ある」ものについては、もっと淡々と、「答えは56です。46になっている人は、くりあがりを忘れていないか、もう一度見てみましょう」と言ってもらったほうがよかったなあ…と昔のことながら思います。
・学歴や出世稼ぎを子どもに不当に強いない点に、平凡指向の良さがあります。けれど凡人も、上昇指向を持っていいはずです。それは出世や名誉を求める欲張りとは違います。自分がもらったものをよく生かして、この世で果たすはずの小さな使命をやりとげて死にたいという願いです。

小学校に入ってからの話題が多いけど、そろそろ娘にもあてはまる話。
家でできることは、たくさんある。

●その他

・アメリカに行く前、「英会話ができない」と心配していたら、語学もできる女性研究者に励まされました。「会話って内容よ」。

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