「スーパージェネラリスト」の時代
なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか?
目の前の現実を変革する「知の力」=「知性」を磨くための田坂流知性論。
田坂さんの本はすべて教科書。
つまり、雑誌のように読み捨てられるべきではなく、
ことあるごとにめくり、何度も何度も読み返すべき一冊
だということ。
●21世紀の知性
・20世紀の「知の在り方」は、「三つの分離の病」を抱えていた。
第一は、「知と知の分離」。言葉を換えれば「専門主義」の病。
第二は、「知と行の分離」。言葉を換えれば「分業主義」の病。
第三は、「知と情の分離」。言葉を換えれば「客観主義」の病。
もし、それを敢えて「20世紀の知性」から「21世紀の知性」への深化と呼ぶならば、それは、「解釈の知性」から「変革の知性」への深化と呼ぶこともできる。
●知性と似て非なるもの
・知能と知性の違い
「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力。
「知性」とは、「答えの無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力。
・知識と智恵の違い
「知識」とは、「言葉で表せるもの」であり、「書物」から学べるものである。
「智恵」とは、「言葉で表せないもの」であり、「経験」からしか学べないものである。
・自分が何かを語るとき、「これは書物で学んだ知識か、それとも、経験から掴んだ智恵か」を自問しながら語ることである。その二つのことを心がけるだけで、我々の「知性」は、確実に磨かれていく。
答えのない問いを問い続ける力。
子どもたちの学校教育も、そろそろそこに向かっていかなくてはならない。
日能研の代表がその重要性を話していたり、
ベネッセの教材、考える力プラスなんかも、このコンセプトに通じる話ではある。
机上よりも観察と体験→経験という方向でもっとこの考え方を強化できたらいいなと、思う。
●割り切りと腹決め
・考えてもなかなか答えの出ない問題を前にしたとき、「知能」は、この「割り切り」という行為に走る。
・なぜ、こうした「割り切り」が問題か? 「知性を磨く」ことができなくなる。精神が「楽になる」ことを求め、「割り切り」に流されていくと、深く考えることができなくなり、「答えの無い問い」を問う力、「知性」の力が衰えていくのである。
・そうであるならば、「精神の弱さに流されない迅速な意思決定」とは、何か? それが、昔から語られる、もう一つの言葉である。「腹決め」
・河合隼雄が、かつて「愛情とは、関係を断たぬことである」との言葉を残しているが、まさに、その通り。
私は、割り切り に陥っていた可能性がある。
割り切るのではなくて、覚悟を決める。
間違っていたら責任をとるという覚悟で、どちらかを選択する。
これこそが、かっこいい。
●七つの思考レベル
・「上向過程の思考」とは何か? それは、下位のレベルの思考を、上位のレベルの思考でチェックするということ。例えば、ある「戦術」を検討しているとき、その戦術が「戦略」のレベルから見て、基本戦略を歪めるような逸脱をしていないかをチェックする。
・これに対して、「下向過程の思考」とは、上位のレベルの思考を、下位のレベルの思考でチェックするということ。例えば、ある「戦略」を検討するとき、ただちに、その戦略が具体的な「戦術」のレベルで実行可能かをチェックする。
この七つのレイヤを自由に行き来できるようになるには、相当の修行が必要なのだろう。
でもこれができるようになるということは、ビジネスパーソンだけの話ではなくて、
人間として成長するということの、意味なのだと思う。
特に、リーダーシップをとる人間としては、必須。
仕事においても、どうしても「考慮漏れ」「想定外」ということがいくつもおきる。
そんなミスを最小化するにも、この七つの思考レベルを意識しておきたい。もっともっと精進せねば。
●ビジョンと願望の違い
・「ビジョン」とは、未来に対する「客観的思考」であり、「主観的願望」や「意志的目標」ではない。それは、「これからこういうことを起こしたい」という願望でもなければ、「これから、こういうことを起こそう」という目標でもない。「ビジョン」とは、どこまでも、「これから何が起こるのか」についての、客観的・理性的な思考であることを理解する必要がある。
●志と思いの違い
・「志」のレベルの思考とは、「ビジョン」として描いた「これから何が起こるのか」の幾つかのシナリオの中から、個人の意志として、もしくは企業の意志として「このシナリオの実現を目指そう」「この未来の実現を目指そう」という思考のことである。
・個人が「志」を抱くときには、「志」と「思い」の違いを理解したうえで、具体的な形で「志」を抱かなければならない。
もう40になる。
単なる青い「思い」ではなくて、もっと確かな「志」をもっていていいはずなのに..。
論語で言えば、私、少し成長が遅すぎるのかも知れないなぁ。
よく考えると、そもそもビジョンがないから志を持ち得ないのかも知れない。
言い訳にはしたくはないけれど、
まずは志の前提となるビジョンが、2000年過ぎに大きく変化した、
ということが、影響としてはあるのだろう。
●私淑の技法
「師匠からは、まず、リズム感を学べ」
「師匠からは、次に、バランス感覚を学べ」
「師匠の『技』だけでなく、その奥の『心』の動きを注視せよ」
といった様々な技法があるが、この「私淑の技法」を身につけているか否かで、同じプロフェッショナルの下で修業をしても、その成長の速さに圧倒的な差がついてしまう。
●戦術とは
・「戦術」とは「固有名詞」で語るべき世界だからである。では、なぜ、「戦術」のレベルの思考では、「固有名詞」が不可欠なのか? 具体的な「シミュレーション」を行うためである。
この「固有名詞で語るべき世界」というのは、
とてもわかりやすかった。
なるほど。
●技術とは
・技術 日本語でいえば、「企画力」や「提案力」「交渉力」や「営業力」、さらには「プレゼン力」や「プロジェクト・マネジメント力」など「・・・力」といった言葉で語られる能力。
●想像力と反省力
「想像力」とは、「未来に起こる出来事の展開を具体的に想像し、そこから最善策を選ぶ力」のこと。
「反省力」とは、「過去に起こった出来事の経緯を仔細に追体験し、そこから改善策を学ぶ力」のこと。
●心の動きとは
・一つは、「自分の心」の動き。
一つは、「相手の心」の動き。
一つは、「集団の心」の動き。
・「自分の心」の動きを感じ取る「内観」の修業をしないかぎり、「相手の心」の動きを感じ取る力は身につかない。
・我々が「相手の心」の動きを見誤るのは、ほとんどの場合、自分の心の中の「エゴ」が「自分に都合の良い解釈」や「自分に心地よい解釈」をするからである。
・そして、「自分の心」の動きを感じ取り、「相手の心」の動きを感じ取る修業を重ねると、自然に、「集団の心」の動きを感じ取る知性も身についてくる。この「集団の心」の動きを感じ取る知性とは、いわゆる、人間が集まる場において、その場の「空気を読む力」「雰囲気を察する力」と呼ばれるものでもある。このチラかは、言うまでもなく、職場のマネジメントや会社の経営において、マネジャーや経営者に求められる大切な力量でもある。
普段は比較的空気を読めているのに、
自分の能力を大きく超える人が場に影響力をもっているときだけは、空気・流れが読めないことがある。
これは、その特定の相手の心の動きが読めないからなのだろう。
そして、その特定の相手の心の動きが読めないのは、自分の心・能力が、まだそのレベルに達していないから。
なるほど。
●その他
・我々は、無意識に、自分の思考を、自分が得意だと思っている「思考のレベル」に限定してしまう傾向がある。(自分は技術屋なので…)
・企画会議の始めは、会議主宰者として、誰もが自由に意見を言えるような民主主義的な雰囲気を作るが、アイデアも出尽くして、議論も尽きたあたりからは、それまでの議論を建設的・生産的な形にまとめていかなければならない。そのため、企画会議の後半には、主宰者は、密やかな強引さをもって議論をまとめていく必要がある。それが、「始め民主主義、終わり独裁」と言われるゆえんである。
限定している人、とても多い。
というより、それが当然で、ほかに道はないと断定的に思っている人の方が多い。
あぶなかった。私もその考えに染まりつつあった。
私は、七つのレイヤの知性を自由に行き来できるように、なりたい。
先は長いけど、少なくとも、そう志向したい。