絵本でほどいてゆく不思議

暮らし・子ども・わたし

松井るり子さんが、末っ子が高校生の時に書いているものだから、
初期の「七歳までは〜」の頃からだいぶたってからのものという意味で、興味深い。
ざっくばらんに、それまでの子育て経験について思いを綴っている感じが、
とてもいい。

●子どもの心の世界

・働く大人を見て、「自分はどういう仕事をする大人になろうか」と考える子ども時代を、いいなあと思います。仕事の中身をすっとばして「なんでもいいから社長」とか、「あんまり苦労しないでもうかってかっこいい仕事」とかいう願いが「将来の夢」なんて気持ち悪いですから、イメージ貧困なうちにそれ言わすのやめましょうね。
・綿菓子のことを、子どもに「あんなの、空気を混ぜたダラメだから、食べなくてもいい」という人がいるでしょうか。子どもはザラメの部分を食べているのではありません。むしろ空気のところがおいしくて、その空気の中に「妄想」と言っていいほどの、いろんな楽しい思いを詰め込んで、おいしいを超えたいい気持ちになっているのです。いい気持ちを味わえなくなった大人が、そのただ中にある子どもへの、憧れといとおしさでいっぱいになって、綿菓子を買います。

子どもの夢を壊すニヒルな皮肉を言う人、
バカにするような人が、増えている。
子どもをもたない人が増えていることと関係があるんだろうか。
あるいは子を持つ大人にも、そういう人はいる。
そして、その子も同じようなスれた子になりかち。
少なくともこんな環境には子どもを置きたくない。
都会を離れれば少しはましになるのかな。

●子どもが傷つくとき

・「小さい子に譲れ」は、三年生になったら言ってもいいけれど、三歳の子に言うことだとは思えません。がまんを強いねばならない事態を発生させた自分の中途半端なケチを、なぜ三歳につぐなわせなければならないのか。三歳に「おねえちゃん」であることを要求する前に、大人たちが本当に大人をやってくれ、と思います。
・からかわれた方が「お行儀わるいことしちゃったから、からかわれて当然だな」とわかるとき、あるいはそのときひどくまじめに取ってしまっても、後から「なあーんだ、アハハ、からかわれたんだ。やられた」と笑えるとき、からかいがうまく機能します。こんなふうにからかって楽しいのは大人だけで、子どもには迷惑です。まじめにやってください。子育てに、本当の意味でのまじめさが欠けています。
・わざとらしいほどことばを尽くして、やっと届くぐらい遠くまで距離が開いてしまったとき、その修復が「自然に」なされることなど、ありえません。修復が親の側から自然に見えるとき、たいていは子どもが「不自然に」我慢して、それでいいことにして、ちょっぴり涙ぐみながら許してくれたのでしょう。
・「ここを直したら好きになってやるよ」みたいなことを、いろんな言い方でつい言ってしまう私たちですが、人を好きになったとき、子どもを授かったときの喜びに、この絵本で立ち返ると、私も好きな人が喜んでくれるように働きたくなります(コーちゃんのポケット)

三歳に「おねえちゃん」であることを要求する前に、
大人たちが本当に大人をやってくれ というセリフは、ずっしり来た。
私も、子どもが傷つきながら「自然」を装ってその場を解決し、
継続的にセルフイメージを下げ続けていないか気になった。
そしてまた、私の子育ての最優先キーワードが、頭に浮かんだ。
「セルフイメージ・セルフエスティームを大切にすること」
全てはこのことに集約される。
拡大するエゴと折り合いをつける必要はあるけれど、それは次のステップでいい。
そういうものは、恐らく、信頼関係関係で乗り越えられる。

●女性が働くことについて

・既にさんざん「待っててね」と言い続けている我々が、インターネットによる在宅径座活動を始めたら、さらに子どもに「待たされる仕事」が増えます。あかんぼぐらしおかあさんにとっても、子どもが眠っている隙に自分も眠っておかなければ、身体が保たないのが現実ではないでしょうか。
・幼児にとって、デキルおかあさんを持つよりも、近寄ったらほわんとあったかくて、ぼやんとのんびり、競争や評価から離れて過ごさせてくれる人のそばにいられるのが幸せだと思います。
・女性の権利が尊重されるようになり、便利な通信手段が安く使えるようになり、働き方が変わっても、変更不能なことがあります。それは、あかんぼと子どもには、最低一人の大人が、ずっとそばにいてやる必要がある、ということです。
・大人の男と女が公平に生かされることは大事ですが、それは子どもに必要なことが満たされて、初めて考えたいところです。何はさておき、未来に開かれた子どもが優先的に大事にされることが「公平」であるのは、大人たる者に共通の了解のはずです。そこを置いてきぼりにした、大人の男対女や、専業主婦対働く妻の公平議論の中で、子どもが取り残され、じゃまもの扱いされてゆくのが、気になります。
・「働きたい」と「子どもといたい」とで引き裂かれる気持ちは「何で女ばっかりが。男だってもっと悩むべきだ」とか、「福祉が貧しい。保育所さえ完備すれば」ということで軽減できても、消滅するような簡単なことではありません。本当はもっとずっと難しい、誰かのせいにしようもない、個人的で苦しい問題です。
・「夫も社会も、女性が仕事を続けることについて、知らんぷりをやめてよ!」ということはいくらでも言って、変えてゆかねばならないと思いますが、大人たちがみな「私から子育ての負荷を取り去って」と言い始めたら、妙なことになるでしょう。子どもという存在を、自分以外の誰かに負ってもらって、自己負担分をできるだけ薄めようとおしつけ合いをしているのに気づいたあかんぼが、私ならグレます。
・男が女にしわよせをしなくなってめでたいと思ったら、大人が子どもにしわよせするようになっただけかもしれません。仕事至上主義が、ホントは楽しい「子どもを持つこと」を、厄介の種扱いしてしまって残念です。自分の意志で引き受けた問題は、自分の中で決着をつけ、嫌なこともふくめて自分持ちと決めた後は、黙して語らぬのが大人です。厄介であることを「そうよそうよ、私はこんなに歯ぎしりしながら母親をやっているの」と、当の子どもに聞こえるところでおおっぴらにするのは失礼です。

私もずっと感じていた世の中に対する違和感を、この方もズバリ指摘していた。
ほんとにそう、子どもを置き去りにした保育所増設の議論なんて、
まったく無意味だし、子どもは深く傷ついているように思う。
保育所を増設するより、家にいる時間を長くできるような、企業努力の方が必要。
ちなみに私は男性だけど、できることなら、
子どもと接するこの貴重な時間をもっと増やしたい。
仕事なんかしてる場合じゃないのにと、思うくらい。

●絵本の意味

・子どもは、実は絵本の内容なんか二の次、三の次。親が自分のために時間を使おうと、そこに座ってくれただけで、まずはうれしいことでしょう。子どもを膝に乗せて、絵本と腕でぐるっと囲むように構えたとき、子どものお尻も背中もぴったりと「おかあさん椅子」にはまり込んで、頭の上の方からおかあさんの「いい声」が聞こえてくるわけです。ふだん「速くっ!」「だめっ!」「ほらっ!」等々、「っ!」つきのことばの多い人から、「いい声」の「きれいなことば」が出てきたら、それだけでもう天国です。
・私は、流行っているからとか、評判がいいからと本を買うことはなくて、好きな誰かが薦めてくれた本、好きな著者の本、自分て見て欲しいと思った本を買います。
・おとぎ話は、現実からの逃避や現実軽視のためにあるのでなく、現実をより豊かに愛するためにあるという、お話本来の健康な姿を思い出させてくれます。

小さな子がする全ての行為は、この原則を忘れてはいけない。
音楽をならうとか、何らかの習いごともそうだし、
勉強でもそう。見ていてもらえるから楽しいのであって、
親が子どもと離れられる時間をむりやり作り出すためのような、
歪んだ目的の習いごとは、子どもは集中なんてできないし、
それを嫌いになってしまうこどたって、あると思う。

●特におすすめする絵本

・今の私の「孫に買う本」筆頭は、ジビュレ・フォン・オルファースの六冊です。
・数枚の絵で一つのお話を語り、その一枚の中にも、文字には書かれないたくさんのお話が隠れている絵本があります。オルファースはこちらです。
・目のの前の絵には見えない、地面の下や幹の中、別の季節の別の姿が、時間と空間を超えてずーっと広がっています。オルファースの絵のように、一枚を見ているうちに、同じ場所の別の時刻、別の季節の絵を、自分の力で自分の頭の中に描きたくなるような絵が、子どもにとって必要な絵だと思います。

これ、よかったら買ってみたい。
まずは図書館で下見だな。

●買ってはいけない絵本

・春の花と秋の花が同時に咲いているような絵本は、どんなにいい話でも「嘘だからだめ。そんな本は捨てなさい」と、保育者の母は過激です。大人はぼーっと見過ごすだけだから放っておくけれど、子どもは命がけで見ているから「エッチだけが有害図書と思ったら大間違い。こっちの方がたちが悪い」と言って、ほんとに捨ててしまいます。
・「どの本がいいか、答えは子どもが知っている」という説は、一見大人として謙虚で、なおかつ子どものような冒険心に満ちて魅力的です。でも現実の子どもが暮らしの中で「知ってきたことがら」の母集団についての検証が何もないと、テレビづけの環境から、テレビのキャラクター絵本ばかりが選ばれる「自然」が尊重されてゆきます。ファストフードしか知らない子どもに、今日のごはんは何がいい? と問えば、ファストフードで答えてくるのと同じです。そんなことにならないように、栄養とおいしさとお財布の中身とを考えながら、買い物かごをかかえてうろうろし、料理本を読んだり、料理雑誌を買ったり、新聞のレシピを切り抜いたりして、おかあさんたちはがんばっています。
・それと同じかもっと繊細な心遣いが、子どもの心に必要だということを、改めて考えました。「子どものために」考えられたいろんなプログラムもまた、食べ物と同じく、使いようで毒にも薬にもなるのでしょうね。

一度、娘の好きなように図書館で絵本を選ばせたのだけど、
やってみて、やはり駄目だなと思った。
好きに選ぶ経験もさせてあげたいとは思ったけど、
そのメリットよりも、有害図書にあたっしまうリスクの方が大きい。
やはり、まだしばらくの間は、私が選んで借りてこようと思った。

●教育の落とし穴

・末っ子に「多数決で負けた方が、本当は正しかったということは、今までなかったの?」と尋ねられて、ますます返答に困ります。「会社の正義」の下で社員が強調したために、人死にが出て、会社が滅びそうになる事件もありましたっけ。多数決で負けた方が正しかったことは、学校や大人社会にいくらでもあると思います。どうにも私には「学校用協調性」「会社用協調性」「国家用協調性」に、疑問符なしで与したくない気持ちがあって、「強調」そのものをうさんくさいものとして、疑ってかかっていたのでした。
・大人の中身が空っぽだと、いろいろ不安であれこれ口うるさくなります。(欲張りな「教育機会逃さず志向」) 中身がここまで満ち足りていると、口数少なく、ふるまいが優雅になるのでしょう。静かで豊かなことばは頼もしく、また実効性があると思います。

近所の小学校で、平日に学校を休んで家族で出かけたことの是非について、
学級会議が開かれて議論が行われたという話をきいた。
実際にその場にいたわけじゃないから詳しくはわからないけど、
推測するに、これって、会議というより裁判に近かったのではないのかな。
そして是非を多数決でとるなんて、とんでもない価値観の侵害だ。
ひどすぎて腹がたった。

●生活習慣あれこれ

・「あっそうだ。こういうことは、自分の頭で考えねばいけないのだったな」ということを、いちいち考えないと思い出せないような習慣の形成に、夜ふかしとテレビが関わっていると思います。
・家族みんなで食卓を囲むとき、私がこっそり考えるのは「最終回は○年先の○月○日」ということが、既に決まっているのだろうなということです。
・どんなにおいいそうに見えても、果物ってうっかり食べちゃいけないの。皮膚科の先生によれば「漢字で書ける果物は、まあ安全」。なるほどねえ。
・子どもたちが大きくなって、もはや子どもとは言えない年になり、背丈も靴も私より大きく、寮に入ったり、近くにいてもそれぞれの時間帯で暮らして、合宿だの何だので外食が増えてくると、日常的に「わたしのつくったごはんをたべ」てくれる高校生の末っ子が、断然かわいいのです。あれ、私って我が子の中にお気に入りをつくる質だっけ? ひどくないか? と考えてみたら、「わたしのつくったごはんをたべない子」への執着が、このように努力なしで薄れてくるのは、大変ありがたい自然の摂理と思い至りました。薄れてこなかったら大きな子をいつまでも縛って、彼らの独立をはばみ、広がる人間関係のじゃまをして、こわいことになったでしょう。
・コンドミニアム全体の規定で、屋外物干しとふとん干しは禁止でした。ロープを張って洗濯物をはためかすのは、治安の悪い地区の特徴ですから、安全のためにしてはいけないことだったのです。となれば、もどかしいけれど乾燥機使用しか仕方ありません。私はつくづくアジア人で、アメリカは異国で住みにくいと思いました。

家で、親がつくったご飯を食べる ということがこんな重要な意味をもっいたなんて。
私は料理をあまりしないので、ほとんど食べる方の立場しかわからなかった。
これは目から鱗。

●浮気と不倫について

・どんなに女性の権利が尊重されるようになっても、特に夜「幼い子どものそばには、誰かがいっしょにいてやる必要がある」という事実を、変えることはできません。その仕事を人手に分散させず、自分が継続的に果たすことで、子どもの心の安心感の土台を満たそうと、既に決めているのです。
・子育て中、子どもたちにカメラを向ける夫に「ちょっと待って、洗濯物が写るー」とあわてました。カーテンレールにひっかけたタコ足おむつ干しを退かそうとする私を、「動かしちゃだめ。今は恥ずかしいかもしれないけれど、将来このごちゃごちゃ『が』なつかしいんだから」と夫が止めました。そういう形で、雲居の雁おっかさんの私が作ってしまった、ごちゃごちゃの「おうち」を、まるごと肯定していつくしんで、ずっといっしょにいてくれた夫に、今さらながら感謝しています。あんがとね。

世の女性たちはそんなことに怯えているのか…とビックリ。
私としては、子育て中のママが、もし掃除も化粧も洋服も完璧だったら、
それこそ、子どもを犠牲にしいるのではないかと変な疑いをもってしまう。
他を犠牲にしたとしても、まず子どもを最優先しくれる妻だからこそ、
大切にしたいと思うんだけど。

●自然について

・「オオカミ」っていうのは「大」きな「神」さまなんだよ。いじわるな、悪いやつに見えるかもしれないけれど、オオカミがいなかったら、大変なことになる。群れの数が増えすぎると、食べるものがなくなって、群れごと全滅してしまう。食べるものがどんなにたくさんあっても、やっぱり増えすぎは困ったことみたいでね、なんだか突然、群れごといっぺんに川に向かって走り出して、次々溺れてみんな死んでしまうことだってあるんだよ…。
・「疫病、戦争、飢饉は、過剰人口への自然による救済である」としたのは、経済学者のマルサスです。
・人間同士でお金を払えば「文句あるかウチの土地だ」と思ってしまいますが、それは単に便宜的なことで、神様からは「お借りした」だけなんだなあと思いました。さらに言えば土地に限らず、自分の命も、子どもとの縁も何もかも「お借りした」だけなんだと気がつきました。(「何も所有できない」)

ゆるやかなクリスチャンの松井るり子さんだけど、
地鎮祭は自前でやってみたりもしているようで、
この、こだわりのないおおらかでニュートラルな感じが好き。