子どもに愛が伝わっていますか

“親業”
子どもの心と向き合うのが上手な親、下手な親

親業のガイドライン的な一冊。
平井信義さんを引用していたり加藤諦三さんが帯を書いていたり、
つながってるんだなーという感じ。


能動的聞き方、私メッセージ、環境改善
この三つを抑えておくだけで、子育てはとても楽になる。
それが頭の中ですっきり整理できた。
●原則

・親業は、子どもに子どもの人生を所有させるところからはじまります。そしてそれが親の自立への道でもあるのです。子どもに生きる力をつけていくことは、子どもが困ったりおびえたりしたときに、親がしゃしゃりでて、子どものかわりにその悩みを解決してやることではありません。親が子どもに生きる力をつけるために、子どもの人生は子どもが所有していることを認め、子どもの悩みを子どもが所有し、子ども自身がその解決をしていくようにするということなのです。もし親が、いわば既製の解決策を子どもに与えていると、子どもは依存性を助長され、自分自身で問題を解決する力を、未開発のままに一生眠らせてしまうことになります。
・子どもに失敗の機会を与えることは大切ですが、ただ与えるだけではなく、その後の処理を適切な形で行うことが、自主性の発達には何より必要なことなのです。ここではじめて、親が援助の手をさしのべることができます。
・親の愛情が子に理解されることであじめて、叱ることの意味が出てくるのです。
・”能動的に聞く”(共感的理解)→母性原理  ”わたしメッセージ”→父性原理
・価値観は押しつけでは変えられません。「なぜこんなことがわからないのか!」と大声で怒鳴ってみても、子どもの感じ方まで変えさせることはできないのです。親の価値観は子どもに押しつけたくても、押しつけられません。親にできるのは、親の価値観から子どもが影響を受けるように、さまざまな努力をすることであって、相手をむりやりに変えることではないのです。子どもは親のいいなりにできるロボットであるという考えは成りたちません。子どもは、人間として自分がいちばんよいと思う行動を主体的に選ぶ存在です。
・親は、自分の価値観を日常生活のなかで体現することで、自分が何を大切に思っているかを子どもに教えることができます。親のいうこととすることがちがえば、子どもは親のすることのほうから、より大きな影響を受けるものです。「子どもは親のいうようには育たないが、するようには育つ」

父性原理と母性原理のバランスが必要。
母親である妻の方に、能動的聞き方と私メッセージが習慣として根付くまでは、
私の方では、とくに母性原理を強めに出していた。
けれど、そろそろ安定して妻が母性原理で接することができているので、
私は私メッセージを出していくことができるようになってきた。
そしてもっと、「無言の価値観の体現」も意識してよいかも知れない。
●共感的理解 – 能動的聞き方

・白いボールを子どもから投げられたとき、親の返す白いボールには三つの可能性があります。
 1.子どものいうことをくり返す
 2.子どものいうことを自分のことばでいい換える
 3.そういうことばを口にした子どもの気持ちをくむ
・能動的な聞き方を心がけることによって、親は子どもの悩みを映す鏡のような存在となることができます。子どもにとっては、親が白いボールを返すことは、自分の白いボールをよくながめることができるということなのです。
・いくら親が「何かあるのかな」と思っても、子どもに時間がないとき、子どもが遊びなどに夢中になっているときには、能動的に聞いても効果はありません。聞くのにもTPOが必要です。
・1.受容性(acceptance)相手をありのままに受け入れ, 2.共感性(empathy)感情移入して相手を理解し, 3.真実性(congruity)聞く側が自分の感情を偽って相手と接しない。自分にない感情をあたかもあるかのようによそおって相手と接したとき、結果はきまってよくなかったというのです。

能動的聞き方、共感というの、親子でなく男女にもあてはまる話。
とくに女性の話をどう聞くかという時に。
そしてこの意味の本質は、共感による一体感ということよりも、
「フィードバック効果」の方にあるのかも知れないと思う。
大人の男性が女性や子どもほどには共感を必要としないのは、
もともと、自分を客観視することが得意だからかも知れない。
逆に言えば、主観の中に没入することのよさを体現している女性や子どもには、
この、共感や能動的聞き方によるフィードバックが意味を持つ。
●私メッセージ

・”あなたメッセージ”は、親が自分のボールを投げもしないでいて、自分のボールのとり方を子どもに教えようと躍起になっているのと同じです。”わたしメッセージ”では、あれこれ子どもに指示する前に、まず親がボールを投げることが大切だと考えます。そして、そのボールをどのようにとるかは子どもに任せてみましょうというのです。
・”親への影響”の部分が入っていることがとくに重要です。”影響”の部分がないメッセージを出してみても、それは、あることについて親が嫌な感じをもっているということが伝わるだけで、子ども自身が納得して自分の行動を変えるところまでは、子どもの心を動かしにくいのです。”影響”の部分が入ることで「どうして」それが気にかかるのかが子どもに伝わり、これが説得力を高め、子どもが行動を変えやすくなるわけです。
・「えらいね」「おりこうね」とほめることよりも、「おかあさんそういうのが好きよ」といわれたほうが、おかあさんの人間性が直接に伝わってきます。子どもの注意が「自分はエラい」と字部にむくか、「おかあさんて僕を好き」という親の感情にむくかの違いで、親に対する親しみやすさがちがってくるのです。

どのような行動が、どのように影響し、どのような感情になるのか。
影響が欠落した偽の私メッセージを使う人は多い。
それをやってしまうと、言われた子どもの存在価値を否定し、
自尊心を激しく傷つけるという最悪の逆効果を生むから、要注意。
●環境改善

・環境改善の”+-CP” (足す引く変える計画する)
・親がふっと嫌な思いをし、それを積み重ねていくことで、親のイライラや子どもの小さな罪悪感がつくられることもあるでしょう。それが親のいうことを聞くとか聞かないとかの反応として理解されることで、親子関係に亀裂を生んでいくのです。毎日の生活だからこそ、ちょっとした工夫で避けられるような小さな対立はなくしていくほうが得策ではないでしょうか。
・はやくから子ども部屋を与えることは、子どもを家族から切り離し、勉強さえしていればいいのだという自己中心性を子どものなかに育てることにもつながりそうです。さらに、自分のものを自分で管理し、整理整頓する習慣は、自由にできる机を与え、部屋を与えることからは、かえって生まれにくい面があるのです。なぜなら、自分さえよければ、整理されないままで生活できるのですから。子どもにはやくから個別の部屋を与えることが理想だとは思えません。
・人間は環境に適応していくことが必要ですが、同時に、環境が自分にあわないときには、環境にはたらきかけてその環境自体をつくりかえていく必要もあるはずです。

環境には、必ずしも適応しなければならないということではないのだ。
そこを間違えている人が意外に多い。(自分も含めて)
環境に働きかけることは、知恵を使うことである。
決して逃げることではない。
●誤 : 力の行使

・親からの権力の行使に対しては、大きく分けて二つの反応しかありません。従うか、従わないかです。それは、自分で問題を考え、自分の行動を決定するというのではなく、親のいうことに従うか従わないかの反応なのです。
・親の力にいつも負けていると、心のバランスがくずれ、どこかで勝ちたくなります。自分がやっつけられたり、自分の気持ちに反することを押しつけられると、自分が中心である場がほかに必要になってきます。そこで、物語のなかの王子さまになったり、強い自分を確認するために負けず嫌いになったり、現実から逃避したり、勝つまでしつこくねばったり、賞を要求したりすることになりがちです。日本のテレビでは、悪の集団を強いヒーローが変身してやっつけるという子ども向けの番組が多く、ほとんどワンパターンのストーリーが、あいかわらず放映されています。これは、子どもにとって格好の逃げ場所を提供しているといってよいでしょう。ヒーローは、悪を倒すのに力に対して力を使い、敵が死ぬまで戦いつづけるのです。暴力が正当視されているのです。ヒーローが変身して強くなるように、「いまにみていろ。僕だって、そのときがきたら強くなるんだぞ、そして悪人をやっつけるんだぞ」と、幼い子どもの胸にそのパターンが潜在していることも十分考えられます。
・親の権力は、いずれは消滅せざるを得ない運命にあります。子どもの成長とともに、子どもにとっての魅力ある賞や恐れるべき罰が、親の手元からなくなっていくからです。親の権力は麻薬のようなものだからです。効き目を維持するために、ますます強い薬を用意しなければならないのと同様に、ますます強い罰、ますます魅力的な賞をもってこなくいと効き目がなくなっていきます。
・子どもの成長に従い、親が、権威の基盤である知識、情報の、経験の部分を磨くことなく、ただ権力の部分だけで子どもを親の気持ちのままに動かすことになれてしまい、子どもを自分の思いどおりに動かすことこそ、”親の権威” だと勘違いするところから、親子の問題が生まれてきます。権力は、子どもを動かす力です。親が自分でもとうとするものです。権威もまた、子どもを動かします。しかしそれは、子どもが自分で動きたいから動くのです。
・親の権威、権力を使って子どもに何かを強制してやらせようとするたびに、子どもから自己規律と自分に対する責任を学ぶ機会を奪っているのです。
・きめたことを実行するのは、親であれ子であれ、容易ではありません。親だって自分できめたことなのに、マラソンもいつのまにかやめ、勉強するかわりに子どもと遊んでしまったり…。そんな自分は許しながら、子どものほうは許せないというのは、親の身勝手というものでしょう。

指示待ち病が、まさにそれだ。
反応的な人間の大量生産をしないように、パワーの乱用をひかえるべき。
でも、自分たちの親の世代にこれを理解させるのは難しいのかな..。
●誤 : 過保護

・自分を殺して感情を表に出さないことは、子のために自分を殺すのはよいことだというひとつの生き方をこどもに示すことになり、それは、現代社会のなかでは、かえって子どもに苦しみを背負わせることにもなりやすいのです。自立した一個の人間の生き方を子どもに示すためには、親はさわやかな自己表現をしていくことが大切なのです。「あなたの気持ちを大事にすると同時に、私は私の気持ちも軽んぜず大事にしているから、その気持ちをあなたにも知ってほしい。そして、私の気持ちを大事に思ってくれているであろういなただから私は告げたい」という、子どもへの信頼を示す行為でもあります。親の人間性を直接子どもにぶつけたとき、親は、自分の心で話しているのです。そして、そのとき子どももはじめて、親の愛情を愛情としてストレートに受け入れることができるのです。
・いちばんよくみられるのは、しばらくは子どもに勝たせておくが、子どもの行動があまりにもひどくなった段階で、突然、親が勝つ形で子どもにせまる、というやり方です。そして、その後で、親のほうも悪かったと思い、また子どもに勝たせるようにしたりします。

私も、もっともっと、真実性を重視して、
私メッセージをたくさん発していこうと思った。
●その他

・ある銀行が主婦を対象に行った調査結果をみても、「良妻であるより、賢母でありたい」との意見が圧倒的に多く、昔も今も、親が子を思う気持ちに変わりはないといえるのです。ちなみに、欧米諸国には、賢母であるより良妻でありたいと願う女性が多く、子どもが生まれたときよりも、妻となったときのほうが感激が大きいようです。
・「君、今日遊べる?」といって、まるで仕事の約束のように、まずあらかじめ相手の都合を聞いてからでないと、遊ぼうと思っても相手が見つからない子どもたち。なぜ、そんなに子どもたちは駆りたてられなければならないのでしょうか。

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