自立心を育てるしつけ

親業・ゴードン博士

活字の苦手な妻にも、
私が音読してシェアしたいくらい
すばらしい本。

●マインドセット

・「しつけ屋」か「甘やかし屋」かという、二つの方法しかないのではない。
・子どもは本当は、まちがった行動なんかしていない まちがった行動というのは、明らかに親が作った価値判断なのである。子どものある特定の行動に、否定評価のラベルがはってあるのだ。おとなにとって、望ましくない結果をもたらすから、まちがっているというのである。その行動のよくないことは、おとなの気持ちの中には現実に存在している。しかし、子どもの気持ちの中にはない。子どもは実際には、何かの欲求を満たそうとして、選んだり求めたりしているのだ。言い方を変えれば、おとなはよくないことを体験するが、子どもは体験しない。もっと正確に言うと、悪い(あるいはその可能性がある)と感じられるのは、子どもの行動の結果である。子どもの行動そのもの、ではない。この決定的な区別を理解すれば、子どもに対するおとなの考え方は、明らかに変わる。子どものすべての行為を、単に欲求を満たす目的の単純な行動だ、と見始めるのだ。子どもが、正常な人間の欲求を満たそうと、さまざまに行動することがわかれば、子どもの行動が正しいかまちがっているかなどと、評価することは少なくなる。
・賞や罰で外かコントロールしても、子どもはもはや規律を身につけにくい。そして私の知るかぎり、『親業』『教師学』の子どもとのつきあい方のモデルだけが、外からのコントロールを放棄するものだ。ほかにも、親教育や子育ての本、訓練などはたくさんある。しかしどれを見ても、ほめることを含めて、賞を使うようにとすすめている。

子どもをうむと、人は急に「教えなければならない」という妙な自負と焦りが出てくるのかも知れない。まだ子どもがひとりで座ることもできない乳児の頃から「教えなきゃ」「育てなきゃ」のプレッシャーの中に生きている親が多いような気がする。
子どもは、教えられなくても勝手に学ぶ。危険回避を目的としたごく一部の情報を伝えればいい。そのすべてが好奇心に基づく探索行動なのだから、それを否定されたり意図的に助長されたりするような「教育」という名のコントロールをされる子どもはとても哀れだ。

●賞が与える悪影響

・幼い子どもが、積み木やブロックで家を作って遊ぶ。子どもは作ること自体がおもしろい。自分でできるということを自ら評価し、自分で賞を与える(内的な賞) – そんな例を、私はよく見てきた。ところがおとなによる賞は、子どもにとっては外かくる評価(外在的な賞)である。
・外的な賞が子どもにどう影響するかは、きわめてわかりやすい。賞を頻繁にもらう子どもは、親が喜ぶと思えることだけを選んでするようになる。親が喜びそうにないことは、しないようになる。親にとって、これは望ましいこと、と思われるかもしれない。しかしこういう子どもは、進歩性、創造性、自律性が育ちにくいのだ。新しいことをするよりも、ほかに同調することを学ぶ。新しいことに挑戦するよりも、ほめられるとわかっているやり方を学ぶ。賞をたくさん与えることは、賞がなければ自分の行動や結果に喜びを得られない、そんな子どもを育てる危険があるのだ。そういう子どもは、勝って表彰されなければ、スポーツは楽しめない。見返りがないかぎりは、他人に新設にはしたくない。いい成績が得られなければ、学習の喜びが感じられない。外的な賞は、ただ効果的でないたけでなく、子どもの自発的なやる気(内的動機づけ)をくずしてしまうのだ。能力や自尊心にとってマイナスなのである。
・「いつもほめる親は、明らかに、子どもをさに従わせるために、ほめことばを使っている。ほめことばが、本当に心から出ていない。子どもの行動が本当にほめるに値する以上のことばになっている」
・おとながほめことばを乱発すると、子どもの間で競争が激しくなる。そな家庭では、兄弟がライバルになる。自分をよく見せたくて、ウソをついてまでほかの子どもをひきずりおろそうとすることもある。

私はこの点をとくに反省した。外的な賞を与えすぎていたのかも知れないと。これはすべて私のコントロール欲求のあらわれだったのだ。素直に認めた。今からでも遅くない。内的な賞を感じることができる子にしたい。そしてそうしない限り、本当の自分とは何か、自分のライフワークとは何かを見つけることができなくなってしまう。

●罰が与える悪影響

・罰は、子どもの攻撃性や暴力を生む。家庭で罰をよく与えられる子は、攻撃性が高く、落ち着きがなく、ほかの子どもへも暴力をふるうことが多い。これらのことは、調査研究の結果に表れている。
・サンドイッチ法をよく使うおとなは、子どもから、あやつるつもりだ、率直でない、いんちきだ、不誠実だと見られやすい。そういう危険を冒しているのだ。
・罰がきびしすぎたり、頻繁にすぎると、子どもが退行する。心理学者はこのことを、白ネズミを使って実験している。電気ショックをさらに強くすると、白ネズミは努力しなくなった。罰を逃れるために、あちこちに横たわってしまった。
・モデリングと呼ばれる過程からも、罰が攻撃性を促進する。体罰は子どもに、家庭の中でも外でも暴力を使え、と教えてしまうのだ。

私の家庭では、幸い、退行するほどの罰を与えることはしていない。でもこの、モデリングの悪影響はある。
おそらく家庭で親をモデリングした子たちが、学校で娘にそのような言動をとることは多いように感じる。そして娘は、学校でその友人たちからミラーニューロンの影響を受けて帰ってきて、弟や私たち父母に乱暴な言動をとることがある。テレビもほとんど見ない娘としては、自然な成長過程における自我の発達という意味の他には、学校以外に影響を受ける場が、ない。
この状況をみていると、ますますホームエデュケーションに心が傾く。社会性を学ぶメリットと悪影響を受けるリスクを天秤にかけたとき、学校に意味を感じない。リスク対効果を考えたとき、効果よりも悪影響の方が大きすぎると感じているからだ。

●罰の具体例

・母なる自然だけ(当然)だけに任せず、おとなが目的をつくる。たとえば、夕食の時間を決める。子どもが時間に遅れたら、子どもがその「論理的報い」に苦しむようにする(その日は夕食抜きで寝るように言う)「論理的報い」の考え方は、私から見れば、まさに「罰」そのものだ。子どもが悪い行動をしたのだから、罰する – 単にことばの言い換えなのだ。論理的報い(夕食抜きで寝る)に、子どもは苦しむべきだというのは、罰する側の罪の意識をやわらげ、正当化しようとしているだけ、と私には思える。私の家庭では、もし娘が夕食時間に遅れても、夕食を抜くことにはならない。娘は冷えた夕食を食べるか、電子レンジで温めるか、自分でサンドイッチでも作るか – というのがふつうだ。これがわが家の「論理的報い」であり、夕食抜きで寝かせるなど、とんでもない非論理的なことだ。そう考えるのがむしろ「自然」だろう。だからこそ、この論理的報いの考え方は、私達の『親業』や『教師学』には、まったく入っていないのだ。

この本を読むまさにその瞬間まで、私はこの「論理的報い」を肯定していた。
しかし冷静に考えてみたら、これはまったく論理的ではない。その論理は大人である私が一方的に作ったルールであり、押し付けであることが多いのだ。ルールはあってもよいけれど、報いの方は言葉どおり自然であるべきで、苦い思いを「させるために」私がそれを決める必要はない。親である私が決めるなら、それは罰則以外の何者でもない。ここの部分、非常にためになった。

●罰の関する研究・統計

・10代のときに一番たくさん罰を受けた子どもは、親が打たなかった家庭の子どもに比べ、結婚後に配偶者を殴ることが四倍も多い。
・子どものとき激しい暴力を経験した夫は、暴力のない家庭で育った夫に比べ、妻への暴力が600%も多い。
・暴力的な家庭で育った親の四人に一人以上が、子どもにひどい障害を与えるほどの暴力をふるう。親から体罰を受けなかった子どもは、兄弟姉妹にひどい攻撃を加えるのは20%にすぎない。親がよく体罰を加えた子どもの場合は、それが100%近くになる。
・著名な実験心理学社ロバート・シアズの調査によれば、よく制限や罰を与える親をもつ12歳の男子は、自罰性、事故にあう傾向、自殺傾向が高い(1961年)
・三つの別々に行われた調査によると、抑圧の強い神経症的な子どもは、ほかの子どもに比べて、家庭背景に制約が多く、過度のコントロールが強い(ベッカー 1964年)
・自尊心の低い子どもの母親は、理由を言ったり話し合うよりも、気まぐれに罰するしつけを多く使う。また賞よりも罰をしつけに多用する(クーパースミス 1967年)
・ぜん息児の母親の比較。ぜん息のアレルギー素因が高い(肉体的要因が高い)子どもの母親に比べ、アレルギー素因が低いのにぜん息をこじらせる子どもの母親は、家庭で批判したり拒絶するのが多く見られる(ブロック、ジェニングス、ハーヴェイ及びシンプソン 1964)
・独裁的な親の子どもは、IQがわずかに下がった。許容的な親の子どもは、IQはほとんど変わらなかった。しかし民主的な親の子どもは、平均で8点以上IQポイントがあがった。「民主的な環境が、精神的発達にとって、最もためになるようだ」研究者たちは、こう結論を出した。

つまりあらゆる研究が、ひとつの事実を示している。
DQNの子がDQNになってしまうというのも、ある意味やむをえないことなのかも知れない。と思った。

●非受容のメッセージ

・非受容のメッセージで子どもを矯正しようというのは、まったく進歩のない信念だ。その考え方は、援助を職業とする人たちの調査研究や臨床実験で否定されてきている。私たちが他人を変えたいと思ったら、他人を彼があるがままのものとして受容する必要がある。この確証は十分にあるのだ。興味深い矛盾、ではないだろうか?
・「もっと砂を濡らしたほうがいいわよ」「そんなに濡らしちゃダメ」「もっと固めるべきだろう」「お城に濠はないの?」「さあ、手伝ってあげよう」こんな親の言葉を、自分はこのプロジェクトの「技師」としては優秀でない証拠だ、と子どもは聞く。一方、おとなが何もしなければ、子どもは受容されていると感じる。

このような過干渉は、教育熱心な親ほど、ついやってしまう。そして子どもの自尊心が下がる。
これは勉強を教えるときだけの話ではない。それはスポーツでもよく見かける光景だし、日常的な生活習慣をみていてもそうだ。
子どもにとってすべては遊びなのだ。つまりこの過干渉がよくないというのは、砂のお城でもサッカーでも計算でも、全部同じだ。

●怒る前にできること

・子どもが使うものは、手の届くところに置く。子どもが見えるところに、ルールの表をはる。小さな脚立を作る。ひき出しやキャビネット、入る、物置き場所にラベルをはる。
・おとなの欲求が満たされなかったり、目標を実現できなかったことは、よくあろう。その原因をたどってみると、おとなが「頼まなかった」ことが多い。あるいは、攻撃的に聞こえる要求なので、子どもが逃げたり抵抗したりすることも、少なくない。

環境改善は、親業で学んだ、どんな人にでもできる最初の一歩。
そして子どもに対して事前に頼んでおくこと、(一方的ではない)合意に基づくルールを示しておくこと。これはだいぶできているように思っている。
でも、子どもが成長するにつれてその欲求も変化する。すると環境の方も変化させていかなくてはならないし、合意事項も変わってくるんだと、改めて思った。生活を見直したい。

●罰ではなく、私メッセージ

・メッセージは、親が一般的に受容的である場合、きわめて効きめがあるとバウムリンドはいう。全般的に親に受容されている状態にある子どもは、自分の特定の行動を受容できないといってくる親からのわたしメッセージに対し、より注意を払う。逆に、親がいつも非受容であると、子どもはまた別の非受容のメッセージが一つ加わったとしても、気づかなかったり反応しないことが多い。
・わたしメッセージを使うと、子どもの自尊心が高められる。スタンリー・クーパースミスによる研究は、このことを証明している。
・自尊心は、人間の生活の中で、決定的に大切である。スポーツで学校で仕事で、自尊心はやる気を出させるもの、と見られている。自尊心の強い若者はまた、友人が多く、仲間から有害な圧力をかけられてもうまく抵抗する。他人の批判や思惑に動じにくく、知能指数が高い。からだの調整がうまく、恥ずかしがりでなく、あがることが少ない。積極的に自分の欲求を満たす。これらはみな、研究で証明されている。自尊心は、精神衛生の本質的な核、基本となる土台とも考えられている。

娘はどちらかというと恥ずかしがりだし、学校での仲間からの有害な圧力への抵抗が十分にできていないようだ。
幼稚園の頃に比べると、友人の質が一変したということもあるのかも知れないけれど、うまく適応できているようには見えない。
もしこのまま学校に行き続けるのであれば、そんなものにも動じない自尊心が必要ということに、なる。

●罰ではなく、対立を解く

・子どもに「雇われている」という、自信をもつこと。つまり、子どもがあなたのサービスを求め、あなたのE型権威を欲していると確信すること。あなたの知識や意見を聞く気があるかどうか、子どもにたずねること。
・あなたの意見を受け入れるか拒絶するかは、子どもにすべての責任をゆだねること。
・援助者としてのおとなは、子どもの問題解決へ直接かかわることを、最小限にとどめることがもっとも望ましい。そうすれば、子どもは依存しないようになる。子どもが問題解決の力をもっていない、と確実にわかるまでは、子どもの問題にかかわるのをさしひかえる – というのが、おとなとしての最善の方法である。子どもの年齢によって、その力は違う。同じ年齢でも、個人差がある。
・おとなはプロセスの案内者である。子どもの問題の内容に参加してはならない。問題の所有者(子ども)が、その問題を解決するために各段階を確認するのをただ援助するだけである。子どもが問題を所有していることを忘れてはならない。問題解決の役割をおとな自身が乗っとって、おとなが問題を所有してはならない。おとなが内容に参加すると、子どもはおとなに依存したままになる。自分で、手際のよい問題解決者になるチャンスを、子どもは失うことになるのだから。
・子どもに案内が必要であるとすれば、子どもが次の段階に移る用意ができているときに、子どもが与える手がかりに耳を傾けることである。段階を移る用意ができている、とおとなが思ったら、次のように言うことができる。
 
 「問題が何であるかを、十分に理解して、そろそろ解決策を考え始めようと思っているのですか?」「この問題を解決するには、何をしたらいいかを考えられるところにきたんじゃないの?」
 
 「考えられる解決策を、すべて出したかな?」「もう、出てきた案を一つ一つ評価してもいいくらい、解決案がたくさん出てきたと思う?」
 
 「どの解決案が最善か、あなたにはわかったようね?」「解決案の中で、一つこれがいいって目立つのがある?」
 
 「あなたの決めた解決策を実行に移すには、何が必要ですか?」「だれが何をいつまでにするかということを決めるところに入ってもいいのかな?」
 
 「あなたの解決策が本当にうまく行っているかどうかを調べる方法を、今考えられるかな?」「あなたの決定がうまくいくかどうか、評価するための期限を決めておいたほうが、よくない?」

勝負なし法の、このステップ移行の声かけ例はとても参考になった。他の親業の本では読んだことがない。
そして、いつも思うけれど、このかかわりを最小限にするところは、マリアモンテッソーリの内容にも通じるなという印象だ。

●その他

・「人類の流行病の中で、治療によって制御されたものはない。これは公衆衛生学上の定説である種痘患者を治療しても、種痘そのものは制圧できなかった。腸チフス熱やポリオ、麻疹でも同じである。人類を苦しめるすべきの疫病は、原因を発見し、その原因をうまく取り除ける段階に至って、制御された。制御するための処置は、初期の予防である。」(ジョージ・アルビー、マーク・ケスラー 1977年)

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