子ども – 社会 – 世界

モンテッソーリ教育法

モンテッソーリ家の資料室に長いこと眠っていた未発表文献を
書籍にしたというものらしい。


“子どもは霊魂の雨として、富として、またいつも約束に応えてくれる存在としてわたしたちのもとに送られてきたのです。”
という言葉に、感動した。
●親が子どもを「つくる」のではない。

・気違いのお母さんのカエルが池の小さなおたまじゃくしに「水からあがって、新鮮な空気をすい、みどりの芝生のうえで体をやすめてごらん。そうすれば、みんに強く健康でかわいいカエルになれますよ。さあ、一緒においで。ママが一番よく知っているから」と言ったと仮定します。この小さなおたまじゃくしは従順であれば、かならず死んでしまうでしょう。ところで、これはわたしたちが自分の子どもを教育するときのやり方なのです。わたしたちが形成しようとするこの小さな生命には、知性と人格を発達させるために、強制したり、しめつけたり、訂正したり、注意を与えたりする必要はありません。時間がくれば、おたまじゃくしがカエルになるのに<>自然が心をくばってくれるように、自然は子どもに心をくばってくれます。
・稽古をしないでピアノを弾くことはできません。理解するだけでは十分ではありません。上達するためには何時間も何時間も練習しなければなりません。人格は教えられて形成されるのではありません。人格は、説明によってではなく、経験によってつくられるのです。
・どんな状況でも、「一人でできるように手伝ってね」と言うあの子どもの言葉を忘れてはなりません。
・普通の学校では、教えなければならないことを話すことによって教え、あるいは簡単に命令したりします。たとえば「静かに」と言います。これは命令です。そして静かにと言うとき、ときどきなにかの上をたたいたりします。これは本当に矛盾していて、まったく非論理的です。わたしたちは静粛を教えるときに、まずそれをやって見せて、それを理解させなければなりません。
・もしもわたしたちが子どもをつくれると考えるのならば、わたしたちは神の作品を破壊してしまうことになります。子どもを形成するのはわたしたちだと思うならば、わたしたちは子どものなかに秘められた活動的な部分を発達させることができません。わたしたちは人間という被造物に宿る力を減少させてしまいます。子どもをつくらなければならないのはわたしたちだと信じてしまうならば、わたしたちは本当に唯物論者になってしまいます。
・子どもは霊魂の雨として、富として、またいつも約束に応えてくれる存在としてわたしたちのもとに送られてきたのです。しかし、この約束がかなえられるためには、わたしたちの努力が必要です。子どもを弱い者と考えないでください。というのは、人間の人格を形成するのは子ども自身だからです。

カウンセリングもマーケティングも子どもに対しても全く同じ。
上から目線で指導しようとか、コントロールしてやろうとか、
そういう意識は完全に捨てるべき。
必要なのはリーダシップであって、力ずくの強制ではない。
エゴイスティックなパワーではない。
●集中現象と干渉について

・子どもが本当に興味のあることをしているとき、いたずらをぜんぜんしないということに驚かれるでしょう。
・作業中、子どもが集中しているとわかると、わたしは子どもの邪魔をしませんでした。
・子どもが誤りを犯していないかと心配しないでください。集中現象の間は訂正する必要はありません。大切なのは、子どもが正しく教具を使うことではなく、教具が子どもの注意をひきつけることです。子どもは、自分から繰りかえし教具を使って練習するときに、また若干の教具にそなえつけられた間違いのコントロールを通して、自分で誤りを訂正していきます。みなさんが妨害すると、子どもの興味は中断してしまいます。自分でみずからを訂正するというよろこびは消えてしまいます。
・しかし、子どもがいろいろと行儀の悪いいたずらをしているときには、この不干渉の規則を適用してはなりません。行儀が悪いのをなおすのに、罰したり、叱ったり、おどしたりする必要はありません。集中していない子どもには、いらっしゃい、お庭でお花をつみましょうと言ったり、あるいは、おもちゃを与えたり、なにか子どもをひきつけることをさせたらいいでしょう。そうすると、しばらくして、子供の隠れた霊魂からなにかがあらわれてきて、子どもは集中し、あたらしい生命を獲得することでしょう。
・集中現象がおこっていないときは、先生は、常識にしたがって干渉しなければなりません。

放任と干渉と適切で自由な環境。
このバランスを理解している人が、まだ少ない。
たいていの人はどちらかに偏ってしまう。
その違いを明確に定義してあげる必要がありそうだ。
●秘密の尊重

・あなたは子どもに干渉しないで、一日でも好きなことをさせたことがありますか
・秘密のない子どもは個性をもたない大人に相当します。おおぜいの良心的な親は、ただ子どもを問いただすことによって、子どもを理解しようとします。しかし、子どもの秘密を根ほり葉ほり聞きだすことになって、子どもは気分を害され、このような試みからよい結果は生まれないでしょう。
・子どもを尊敬してくれることを希望します。「今、なにをしているの」「どうしてそれをしているの」「それはなんですか」とお客さまは聞いたりしません。子どものしていることに口ばしをはさむことは無駄です。なぜなら、子どもたちは、自分たちの身体的な成長について説明できないと同様に精神的活動についても説明することができないからです。軽率なことをすればわたしたちは子どもの発達を妨害し、無思慮に質問することによって子どもの独立心を破壊してしまうことにもなりかねないのです。わたしたちの役割は頼まれたとき援助することです。あぶなくないかぎり、子どもらしい活動や興味に干渉しないようにすれば、自然は、子どもの発達のために気をくばってくれるでしょう。子どもに秘密をもたせてください。
・子どもは称賛されることを必要としていません。称賛は子どもをひきつけません。
・子どもは運動を現実の環境と結びつけることも好きです。子どもは手を動かすことが好きです。それによってある思考が子どもの精神のなかで定着します。それは、子どものなかにあるものの投影かもしれません。たとえば子どもは積み木や砂で家をこしらえます。子どもが自分の精神に内在する考えによって好きなものを組み立てるのを妨げてはなりません。

溺愛によって、子どもの秘密をすべてあばくような態度はNGだ。
このことは、とくに教育熱心な親にとって、要注意事項。
親がのぞむ「型」にはめこもうとすると、過干渉になってしまう。
●よい環境

・先生は子どもにきちんとしていることを期待されるので、身だしなみに気をくばらなければなりません。先生は清潔できちんとしていなければなりませんし、環境が子どもをひきつけるように、環境の一部として先生は子どもを魅惑しなければなりません。三歳から六歳までの小さな子どもだけと部屋のなかにいるとしても、できるだけ身だしなみのよい女の人が先生でなければなりません。先生は神秘的なことをしなければなりません。つまり、先生は子どもの小さな心をひきつけ、魅惑的なかんょうの一部分にならなければならないようです。母親も同様です。社交上、あるいは、夫のためばかりでなく、小さな子どものためにも母親は美しくあって欲しいものです。
・(12)先生は、作業をおわらせ、自分の力を自由に使いはたした子どものところにあらわれて、子どもの心と霊的に接しなければなりません。
・わたしたちは宗教を与えることはできないのですが、しかし宗教心が芽生えるように心をくばってやらなければならないのです。この年齢の子どもは、このような精神的発達のための栄養物を発見しなければなりません。これは〇歳から六歳までの時期です。生命の一部分であるこの基本的な感受性を、いつまでも残るものを環境から吸収する力、すなわち能力を子どもがもつ時期に、活動させなければなりません。宗教的感情は、この時期につくられ、子どもが大きくなるにつれて発達するだけです。このようにわたしたちはとても小さな子どもにも宗教を教えるべきだという意外な結論に達するのです。わたしては、子どもが生まれた瞬間から宗教を教えるべきだと思います。
・ですから小さな子どもを教会へされていったり、宗教的行事に一緒に参加させたりしてください。
・生活からかけ離れた教え方は危険です。道徳的な指導と宗教上の指導をとりちがえてはいけません。わたしたちは子どもと慎重に接しなければなりません。サンタクロースについては適当に話しておいてください。そんなことはいずれ忘れてしまいますが、しかし宗教的なことでうそをつけば、子どもの心を傷つけることになります。非常に慎重で誠実であってください。
・よい学習成果をあげるための一クラスの人数は、三十~四十ぐらいがもっともよいと思いますが、しかしもう少しおおくてもかまわないでしょう。これは先生の能力にもよります。一クラスの子どもの数が二十五名以下の場合には、その水準は低下しますし、八名のクラスではよい成果を得ることはむずかしいのです。子どもたちの数がふえると、事実、成果があがります。二十五名は十分な人数で、四十名が理想的でしょう。

クラス人数については、少なければ少ない方がいいと考えていた自分にとって意外だった。
でもよく考えてみれば、過干渉をしない方がいいわけだから、そうなるわけだ。
宗教の部分にいては、宗教アレルギーの日本人にはわかりにくいのかな。
モンテッソーリとしてはキリスト教的な表現になっているかもしれないけれど、
これはとくにどこどこ教だとかいう宗教のことを指しているわけではない。
宗教的な感覚の重要性は、普遍的だ。
日本なら、お宮参りや七五三もそうだし、初詣や正月の注連飾りだって、
宗教行事のひとつとして考えればいい。
●現代社会 : 抑圧されている子どもたち

・子どもの重要な価値を認識することは、大人にとって有益で、子どもにとっては有益でない目的のために搾取されるという危険性を孕んでいます。
・子どもの運命を、なにが子どもにとって一番よいかを決定する委員会の手にゆだねることは許されないと、わたしたちは申し上げたいのです。子どものために一番よいとされることか委員会の意見にしたがって一度決められると、もうそれでおわりで、もはやなんにも変更できないのです。
・わたしは数年来「児童省」というような子どもを保護する法人あるいは機関の創設を提案しています。
・人間の教育は民主主義の方法とぜんぜん違った風におこなわれます。選択する余地はないのです。モンテッソーリ・スクールでない学校では、学習は好き嫌いにかかわらず特定の勉強が義務づけられ、拘束性をもっています。それは手を使う作業でなく、子どもは椅子ではなく、長いベンチに押し込められてすわらされています。これでは子どもが木の断片からできた十字架にはりつけられたようなもので、その上に、くぎもあります。それは先生のこわい目で、その目は子どもと青少年の心を乱す最初の不安の原因でもあります。せめて理想のために十字架にはりつけにされるのでしたらまだましなのに、これらの青少年たちは、理想もなくただ犠牲になることを強要されるのです。退屈な授業を聞くために、彼らは静かにしていなければなりません。
・民主主義を救うためにいろいろなことがおこなわれ、論じられていますが、まず生命を救済しないでどうして民主主義を救うことができるでしょうか。かわいそうに若い人たちは学校や家庭でいつも指導下にあり、いつも命令され、強制作業中ずっと監視されています。
・普通の学校では恐怖心を養っているのです。これは、どうでもいい些細なことではなく、むしろ危険です。なぜなら、人間の精神がつかれて、目上の人を恐れ、答えられないかもしれないため不安になるとき、知性はもはや開発、開花、成熟しなくなるからです。
・わたしたちは「独裁政治下と奴隷状態におかれているこのような人間を救いだそうではないか」と叫ばなければなりません。しかし、もっとも大切なことの一つは、犯罪者や病人<>にみられるように、少年たちにみずから教養を身につけさせることです。
・生きるために働かずにすんだとしても、あるいは自分や家族の衣食住の費用を賄うお金をもうけるために働かずにすむという人がいても、その人は同じように働くでしょう。人間は呼吸するように労働するのです。労働は人間の実存や生命の本質的特徴の一つになっているのです。自分や家族の生計のために働かないですむ人こそ、世界の大事業を完成する人なのです。生活費のために働かないでいいおおぜいの人がいますが、その労働は偉大なもので、生命の必要に応えるためにつかれることなく走りまわり、いつまでも作業し続ける子どもの労働を思わせるところがあります。
・しかし今日おこなわれている労働は、普通の学校でおこなわれている子どもの作業<>のようなものであって、人びとは奴隷のように働きます。

子どもを理解し、子どもに自由を取り戻すということは、
大人が、過去の親との関係を癒すことであり、
潜在意識の抑圧を解放することでもある。
この革命は、この深遠な意味に気づくことにつながり、
人間の進化の鍵になるのだろうと思う。
自分は、そのような活動の中に人生を置きたいという漠然とした感覚がある。
●正常化

・親切も、よい待遇も、直接に悪い素行をなおせません。なおすことを成功させる唯一の道は、子どもたちの創造的活動が妨げられないような環境をつくってやることだということを、わたしたちは経験によって発見しました。子どもの逸脱をなおそうとしないで、子どもが心身ともに活動できるような生活や、諸活動への動機づけを包括した環境を子どもに与えるようにしなければなりません。わたしたちは子どもに自由を与え、大人による絶えまない指導から解放しなければなりません。
・子どもはたぶん親や社会そのものからではなく、親による抑圧から解放されなければならないのでしょう。彼らが自由に生きられ、しかも母親や父親や他の人たちから離されていない場所を与えなければなりません。それは子どもが毎日数時間過ごすことができ、したいことができて、抑圧をうけない場所でなければなりません。

抑圧がうんだ逸脱現象は、その原因をつきとめなければならない。
既に、病んでいる子どもたちがたくさんいる。
少しでも、どうにかしたい。
●その他

・わたしの経験によると、成熟は抽象的な概念の習得とあまり関係がありません。
・二つの年齢の時期は大変重要な時期であって、一つは感受性を通して学ぶ時期、もう一つは教えられ指導されて学ぶ時期です。
・生物学をよく研究することによって自然があきらかにされたように、個性については、心理学を研究することによってもっと知られるべきです。

私が心理学に興味をもったことの意味は、
このあたりとつながりがあるのかも知れない。
無意識は、たぶん知っていたんだろう。