論文の書き方

書く という仕事をしているすべての人に。

●原則

・爆発を遂げるのは、言葉そのものではなく、言葉に託されている観念なのであるから、言葉は慎ましいものであるに限る。重大な秘密を打ち明ける人は、静かに語るであろう。そのためには、出来るだけ単純な言葉、控え目な言葉を選ぶべきである。物足りぬくらいの弱い言葉、つまり、読む人間の方が背伸びして補ってくれるような言葉を選ぶべきであって、壮烈絢爛豪華な言葉は避けねばならぬ。落語家の方がゲラゲラ笑ってしまったら、お客は笑わないであろう。これは万国共通のルールである。
・(散文入門)そのルールの一つは、すべて強調や誇張は避けなさい、ということである。「最大の…」と書きたい時は、「大きい…」と書きなさい、「極めて豊かな…」と書きたくても、「豊かな…」で済ませなさい、と教えている。ハッキリしていることは大切だが、強ぎてはいけない。
・もう一つのルールは、単純に書きなさい、ということである。表現がくどくなると、効果は逆に弱くなるものである。読む人間が満腹してしまい、飽きてしまう。
・捨てて、捨てて、捨て尽したの地に、どうしても残るものがあるであろう。私はそれを書くよりほかはない。
・根本的なルールとしては、句点の多い文章を書いた方がよいと思う。即ち、短い文を積み上げた方がよいと思う。一つの短い文で一つのシーンを明確に示し、文と文との間は、接着力の強い接続詞でキチンと繋ぐことである。
・複雑な内容を正しく表現しようとすればするほど、一つ一つの文章は短くして、これをキッチリ積み重ねて行かねばならないように思う。日本語の文章構成から見て、これは避け難いであろう。

セールスレターを書く上でも、このあたりはとても参考になる。
誠実に、そして大切な人に手紙を書くようにと感変えれば、必然とそうなるかな。
煽り系の強調しまくりレターは、怪しすぎるのだ。

●映像時代に「書く」ということ

・テレヴィジョンの発展につれて、読むこと自体が日増しに難かしくなって来ている。そして、当然、書くことは更に一層難かしくなって来ている。一層多くのエネルギーを必要とするようになって来ている。
・今後の文章は、映像になるものの言語化という仕事から解放されて、映像にならぬものに全力を傾けることが出来るであろう。テレヴィジョンは日一日と進歩して行くので、昨日は不可能であったものも今日は可能になっている。しかし、一切が映像化されるという時代はなかなか来ないであろう。言い換えれば、映像になるものと、映像にならぬものとの区別は、今後も存在するであろう。映像にならぬものは二通りある。
・第一は、抽象的観念である。私たちが飛び越えねばならぬ溝のこと再び問題にすれば、溝の此岸の具体的世界が映像となるのに反して、溝の彼岸の抽象的世界はなかなか映像にならない。具体的経験の高度化と組織化とに役立つべき抽象的観念は、映像の時代が訪れても、依然として言語に身を託さなければならない。見地を変えれば、テレヴィジョンが発達しても、文章を書くという困難な仕事は私たちから去りはしない。それどころか、テレヴィジョンでは、気安く映像にもたれかかることが出来るので、会話におけるように、言葉そのものを粗略に取扱うという傾向さえ現われている。この点は、ラジオが話し言葉を鍛えて来たのとは反対である。
・第二は、未来である。映像は昔からあったけれども、実物より遅れて映像が生れるというのが通例であった。しかし、テレヴィジョンは、実物と映像との間の時間的な距離ヲゼロにしてしまった。だが、過去を征服し、現在を征服したテレヴィジョンも、未来の壁を突き破ることは出来ない。
・抽象的な言葉でイメージを表現する、言葉を通してイメージを他人の内部に生み出す、ということは、昔も今も、文章の本質を形作っている。昔も今も、ではない。映像の時代に活きる私たちは、過去の人々とは桁の違う仕方で、この本質を大切にしなければならないのである。

動画を使ったマーケティング、
そんな時代であっても、言葉だけ、あるいは音声だけで
莫大な売り上げを上げるMr.X
かれの領域に近づくためのヒントが、ここにはある。

●書くと読むと聞く

・文章を読むのに必要なエネルギーの大部分は、抽象的な言葉を通してイメージを掴むために消費され、文章を書くのに必要なエネルギーの大部分は、イメージを抽象的な言葉に託すために、また、この言葉によってイメージを相手の内部に生み出すために消費される。
・書くという働きに必要なエネルギーは、読むという働きに必要なエネルギーを遥かに凌駕する。それに必要な精神的エネルギーの量から見ると、書く、読む、聞く…という順で次第に減って行くようである。
・読むという働きがまだ受動的であるのに反して、書くという働きは完全に能動的である。
・書くという働きを行った後に、漸く読むという働きが完了することが多いようである。
・内容を自分の精神に刻みつけておく一つの方法は、読んで理解した内容を自分の手で表現するということである。読んだことを書くということである。
・書物を読むのは、これを理解するためであるけれども、これを本当に理解するのには、それを自分で書かねばならない。自分で書いて初めて書物は身につく。
・自分と模範との距離が小さければ、模範である文体が自分の内部に入り込んで来る時、当然、その文体の持主の考え方や見方も自分自身の考え方や見方と一つに融けてしまう。自分自身の経験を意識的に掴み出そうとする途端に、文体の持主の経験の処理方法を採用してしまう。文体だけを真似しようとしても、文体には思想が浸み込んでいる。思想とは、煎じつめれば、経験を処理し組織する方法であり、また、処理され組織された経験である。

学ぶ方法として、話すこと書くことが重要ということだけではなく、
ここにあることは、お客さんが何を求めているかについてのヒント、でもある。
つまり、客に書かせたり、読ませたりするより、聞かせた方がいいのだということ。
書くのも読むのも必要最小限に留めてあげる必要があるということだ。
そして、コアな、読むのも厭わないほどコアな客についてだけ、
徹底的に読ませるという教育をしていけば、いい。

●書くことの本質

・書くというのは、空間的並存状態にあるものを時間的継起状態へ移し入れることである。そこに雑然と並んであるものを一つ一つ時の流れへ投ずることである。
・一つの極端に写真が立ち、他の極端に文章があって、両者の中間に絵画があることになる。写真では、制作者も享受者も全体を一度に見る。絵画では、制作者は根気よく時間的過程のうちを歩むが、享受者は全体を一度に見る。ところが、文章では、制作者も享受者も一緒に時間的過程を歩いていかねばならぬ。
・時間的過程の中に次々に現われるものを、その順序に従って書くのもよいであろう。この無手勝流がかなり便利なのは、いろいろのものを経験する時間的過程と、書く時の時間的経過とが、両方とも時間的過程として一致するらである。即ち、空間的並存状態が逸早く経験の時間的過程へ翻訳されているからである。

絵によるマーケティング 図解によるセールスというのも、
もしかしたらそのうちあらわれてくるのかも知れない。
そうすれば、必ずしも動画をつくる必要は、ない。
また、文章において絵画を結ぶツールとして、
現代では、マインドマップとフォトリーディングが、ある。
その意味でも、この二つのツールは画期的な発見なのだ。
人間の思考スピードが飛躍的にアップするわけだ。

●会話と書くこととの違い

・会話の発展とは、共通の前提が増加し成長することである。家庭での会話などは、メンバーが最初から密度の高い具体的状況を共通の前提としているために、「あれは、やつぱり、こうしようね。」などという、言葉としては全くナンセンスなもので会話が立派に行われて行くのである。
・書き言葉は話し言葉と全く条件が違うのである。文章を書く場合、具体的な人間が相手になっているのではないし、まして、相槌など打ってはくれない。具体的状況を相手と共有することもないから、これを当てにするという便宜も欠けている。言うまでもないことだが、表情や身ぶりも手伝ってはくれない。しかも、そういう協力者がいないというだけでなく、会話で協力者が果たしてくれた役割の一つ一つを、文字を使って自分で果して行かねばならないのである。

この内容から、二つの重大な気づきが得られる。
まず、書くことさえできるのであれば、共感の前提の増加という助けが得られる
話すということは、もっと簡単だとうこと。自分にもできるということ。
それから、書く時にも、特定の誰かと話すのと同じように、
相槌をもらい、質問に受け答えていけば、よいのだということ。

●前提知識の重要性

・当の問題について、既にいろいろな学説があるものである。主要な学説は、それを採用するか否かに関係なく、これを知っていなければいけないし、学説の間には相互に批判があるにきまっているから、それぞれの要点も知っていなければいけない。こういう方面で非常識であってはならない。仮に既存の学説をすべて拒否するにしても、その大体を知った上での拒否でなければならない。
・社会には必ずアクチュアルな話題がある。どういう時代にも、人々の関心を集めているアクチュアルな問題があって、それをめぐっていろいろの勢力や意見が戦い合っているものである。こういう状況はよく掴んでおいた方がよい。それは、世間の注意を集めている問題についてのみ発言せねばならぬという意味ではない。自分の文章がどんなにアクチュアルでなくても、結局はそこで読まれ、そこで或る役割を果すのであるから、こういう状況の構造は知っておく必要があるという意味である。
・右の二つの点にある程度まで気を配るとなれば、いろいろの書物を読まねばならず、いろいろの事柄を考えねばならぬ。これを行うと、私たちは実に多くの知識を持つようになる。私たちは沢山のことを知っている。しかし、こうして知ったことを書くわけには行かない。書けもしないし、書く必要もない。その大部分は、私たちが書く文章の背景になるものである。知っているこが100でも、書くことは二か三ぐらいなもので、残った97か98は、私たちが書く時の不安を和らげる役割を果せばよい。だが、書かれた二か三には、書かれなかった97か98の厚みが生まれる。知っていなければ、非常識になるし、知っていることを書けば、常識的になる。
・文章を書く時、私たちは攻撃と守備という二つの活動をするのである。言うまでもなく、攻撃というのは、自分の意見や発見を主張する側面である。これに対して、守備というのは、自分の意見や発見が、学説の上と現実の上とで、社会的に孤立しないように、そこにしっかりと足場を固める作業である。これが不足だと、或いは、不足だと感じられると、社会に向って歩み出して行く自信が生まれて来ない。攻める方が個人性の面であれば、守る方は社会性の面である。
・文章を書く時、自分は何処を攻めているのか。何処に自分の意見や発見があるのか。それを知っていなければいけない。というのは、うっかりすると、ただ守るばかりで、一向に攻めない文章を書いてしまうからである。

恐らく、この数年間、私がやっているのは、この「守り」なのだ。
ひたすら守っているのだ。今まで、あまりにも攻められ続けてきたばかりに、
どうしても鉄壁の防御が必要だという強迫観念が強くなってしまった。
でもここらでそろそろ、攻めなくてはいけないな。
攻めていかなくては、永遠に勝たないし、終わらないんだ。
攻めれば、時に傷つくことはあるけれど、
ギリギリのところで必要最低限の守りをしていれば、いいのだから。
もうそろそろ、十分な前提知識は得られたんじゃないのか?

●引用

・所有権が広く知られていないで、黙っていれば、コッソリと自分の所有物に出来るような場合、その出典を明らかにすることによって、自分が並々ならぬ勉強をしていることを立証することが出来るものである。その引用句によって、誰も読まない文献を読んでいることや、広く知られている文献だが、それを実に綿密に読んでいることなどが明らかになる。つまり、道徳的であることによって利益を得ることが出来る。
・キラキラ光る引用句という子骨ばかり多くて、何処に親骨があるのか定かでない文章をよく見かける。子骨が外国の文献からの引用であれば、親骨がなくても、何処を攻めているのか判らなくても、日本では才能や努力の証拠になるという誘惑があるから、それだけに、私たちは親骨を大切にする態度を身につけなければならない。

確かに、盗用という誘惑は、あちこちに転がっている。
でも、それにもまして、引用にはそんな効用があったのかと、気付かされた。
なるほど、。

●構成の仕方

・土俵が狭いから負けたので、土俵がもっと広ければ勝ったのだ、と言うのはナンセンスである。画家は画布に描かなければならない。文章もこれと同じことで、十枚の世界に何物かを創造するのだ。
・部分品がなければ、機械は出来ない。それに嘘はないけれども、初めに機械全体のイメージがなかったら、どんな部分品を作ったらよいか、その見当もつかない筈である。
・テーマが決まらなければ、そもそも出発することが不可能である。テーマは問題と言い換えてもよい。元来、文章を書くというのは、或る問題に答えることであり、或る問題を解くことである。従って、自分の答える問題、自分の解く問題が決まっていなければ、どんな短い文章でも書くわけには行かない。
・誰でも嬉しくなって、既に序論の段階から、対立とか何とか大騒ぎしたくなるものである。秘密を洩らしてしまうことになる。これは第一頁で真犯人の名を挙げるのに似ている。私の考えでは、重苦しい序論はやめて、むしろ、スルリと書き始めた方がよい。静かに、しかし、確実に書き始めた方がよい。
・結論ーという名称がなくても、とにかく、最後の部分のことであるーについても、大体、同じような警戒をした方がよいであろう。「まだ、多くの論ずべき問題が残っているが、紙数が尽きたので、残念ながら…」などという結論だけは、何としても、やめるべきである。紙数は初めから明らかなのに、最後になって、恨めしそうな表情で未練を言うのは滑稽である。また、必ず次号に書くというのなら別であろうが、重要らしい問題をチラチラ見せてーそんなに重要なら、それを書けばよかったのだー「次の機会に…」などと結ぶのも、厭味たらしい。文章を書くのは一本勝負である。スルリと始めた文章は、プツンと終る方がよい。言い残したことをゴテゴテ並べてみたり、今まで述べてきたことを要約してみたりするのは無用である。ということは、結論の要らぬような本文を書かねばならぬという意味である。序論も結論もなしに、スルリと書き始めて、プツンと書き終ることだ。

確かに、そうだ。
自分はあれもこれもと詰め込みたくなる、未練がましいところがあるので、
ここ、何度も読み返そう
潔さが必要なんだ。

●表現方法

・日本では、すべての句の終りがが実にハッキリしている。「…である。…である。…である。」「…です。…です。…です。」英語などでは、句の終りが千差万別で、いろいろの言葉で句か終っているが、日本語では、全く千篇一律、しかも、取りつく島のないような、キッパリした形で終る。そこで、千篇一律であるから、わざわざ句の終りを口に出さなくても判っているということになるし、また、キッパリした形であるから、これを口に出すと、冷たい切口上に聞える危険がある。
・自信がない人間ほど難かしい言葉の蔭に隠れて、経験の世界に触れるのを避ける。「砕いて言うと…」という言い方で、経験との結びつきを示すのが普通である。しかし、砕くことだけが大切なのではない。抽象の彼岸から経験の此岸へ立ち戻ればよいのではない。もう一度、経験の世界から抽象の世界へ戻らねばならない。もう一度、というのではなく、実は、行ったり来たり、経験と抽象との間で頻繁な往復交通を行わねばならないのである。
・観念は経験の流れへ溶かされねばなならないと同時に、経験の流れは観念に結晶しなければならぬ。
・いかに努力しても、経験へ立ち戻れないような観念があるということである。そういう観念は経験から生まれているよりは、願望から、或いは、想像から生まれているのであろうが、どう苦労しても経験の流れに溶けない。
・拍手したい人々に、そのチャンスを与えない語順というものは、大衆運動の発展から見て、少からず不利のように思われる。大衆運動の話は別として、こういう語順に温和しく従っていたのでは、到底、密度の高い講演は出来ない。いや、講演ではなく、文章の問題として考えても、軽く見過ごすことは出来ない。「私は、…」で始めて、いろいろと書いた末に、「…と信ずる。」と結ぶよりは、「私の信ずるところでは、…」と初めに書いてしまった方がよいであろう。

抽象から具体へ。比喩による説明へ、というのは理解していた。
しかし、経験の流れを観念に結晶化する、メタレベルにもっていくというのは、
確かにほとんどの人が見落としている重要なポイントかも知れない。
私は、結晶化の方は恐らく得意だ。
比喩による説明もたぶんできる。
ただ、意識してそれをやればいいだけ。

●言葉

・自分の書体やインキの色が妙に気にかかるのは、大抵、定義の甘さが原因で、ドンドンと先へ書き進むのが不安になって来た証拠である。危険信号が上ったら、自分の使っている一語一語を選び直した方がよい。
・柳田国男氏は言う。「たとえば『…的』という言葉があるが、これは『ティック』の妙味を解している人間が使い出した。この言葉など子供が使うと、口の橋をひねってやりたい気がする。」
・日本の哲学用語の基礎的なものは、西周によって鋳造されている。「哲学」(philosophy)、「先天」(a priori)、「後天」(a posteiori)は慶応の末年、「論理学」(logic)、「心理学」(psychology)、「倫理学」(ethics)は明治八年、現象(phenomenon)、主観(subject)、客観(object)は明治十一年にそれぞれ作り出された。

●書く訓練を

・小学校、中学校、高等学校に綴方や作文の時間が殆んどないようであるから、大学で急にリポートを書くとなれば、その苦労は非常に大きいであろう。
・ゲーテの言葉「すべての芸術に先立って手仕事がなければならない。」芸術は他人に教えることが出来ないであろう。しかし、手仕事のルールは、他人に教えることが出来るし、誰でも学ぶことが出来る。
・東京の高等学校の生徒八人にいろいろと尋ねてみたところ、彼らが異口同音に答えるのには、作文は国語の時間に含まれているが、書くのは一年に一回ぐらいという。その他にも文章を書く機会がないわけではないが、長くても百字が限度で、それ以上の長いものを書くことはないという。これては、何を読んでも素通り、とまでは言わないにしても、所詮、読んだものが生徒の内部に定着することは困難である。
・即席の論文が立派に書けるか否かは、猶予の期間が与えられている平常の仕事で十分に勉強しておいたか否かで決定されるものである。

あるテーマについてきかれてすぐに答えるためには、
そのバッグボーンとして、普段からたくさん書いていることが大切、というのも、
よくわかる。論述試験なんかが、これによくあてはまる。
子どもには、たくさん書かせよう。

●社説について

・出来るだけ多くのお客の気に入られるためには、一定の政治的意見を持っていることは出来ない。その意見が既に社会の大勢になってしまっていない限り、「社説」は明確な肯定や否定を避けるものである。そして、相対立る意見の間のバランスをとりながら、それぞれの意見を主張して戦う両党派を「喧嘩両成敗」しながら、「これは非常に重要な問題である。」とか、「慎重に考慮する必要がある。」とか、物判りのよさそうな、しかし、差し障りのないことだけを言うのである。多くの「社説」は実は解説に過ぎない。

ということは、
社説だけ読んでいて自分の意見をもたない人は、恐らく博学なバカになる。
また、ときたま社説に「意見」が書かれている場合には、
それは世論と一致しているというだけなので、
やはりそれを鵜呑みにすると、バカになする。

●その他

・ドガは言っている。「絵を描く時の気持は、犯罪者がその行為を行う時の気持と同じでなければいけない。」文章を書く人間も、犯罪者に似ている。書くという犯行を企てるのは、大事を秘密のうちに用意しなければいけない。