怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか

親になったら、名づけの前に読んでおきたい一冊。
音のクオリアについて、これほど論理的にわかりやすく書かれたものは、
他にないだろう。


●子どもの発達段階の確認におけるヒント

・英米語の幼児語mamaとpapaは、赤ん坊が無意識に出す最初の有声子音Mを母親に、意識的に出す最初の無声子音Pを父親に充てている。すべてのことばの音のうち、赤ん坊が最も発音しやすい二音である。一方で日本語は「母」にM音を充てていない。しかし、あっという間に「ママ」という呼び方が習慣化してしまったことはご承知のとおりである。「ママ」と「パパ」が定着したのは、六十年代にアメリカのホームドラマを次々と放送したテレビ局のせいばかりじゃない。人間の生理に即した見事なことばだったからだ。
・一人称を使わずに子育てをするために日本の母子は独特の癒着関係を築きやすい。主語と目的語を一々しゃべる言語を使う国の赤ん坊が母親を別の個体として認識するよりもずっと遅れて、母親を別個体だと認識することになるのだ。赤ん坊にとって一時期、親子や家族が別個体の集合ではなく、一つの生命系になるのである。この日本型の母子依存関係には教育上の賛否両論があるようだが、私自身は、家族という系への意識の拡張を自己認識の根底に持つ人間は、孤独や死への恐怖に強いと思う。なので、自分の赤ん坊に「私がママよ」とは教えなかった。
・上あごに舌を密着させる感じは、誰かにしっかり肌を密着されて抱擁されている心地よさを誘発する。おしゃぶりをくわえた赤ん坊は、上あごと舌の密着感を楽しんでいる。乳児の上あごには、乳首をがっちりとくわえ込むためのくぼみがあるので、おしゃぶりをくわえないと大人のN音のような上あごへの舌の密着感が出ないのである。この赤ん坊のおしゃぶりは、擬似おっぱいではなく、擬似抱擁だ。乳児の上あごの乳首窪は、幼児と呼ばれるようになっても残っていて、やがてなだらかになる。その頃には、幼児には難しかったN音もはっきりと発音できるようになり、それと同時に、抱っこをせがむ回数も減るのだ。私たちが、母親の手を離れて自立するとき、このNのクオリアが手伝ってくれているのかもしれない。母の手ではなく、自分の舌で自分を癒せるようになって。
・ヨシエ、ヒロエ、ヤスエなど、語尾母音がeの名前は、奥ゆかしさが美しく、大人の女性向けのいい名なのだが、人に呼ばれたときに、呼ばれた本人が疎外感を感じることがある。
・完全開音節の日本語は語尾母音によって、まったく違う様相を見せる。語が開放感のaで終わるのか、存在感のoで終わるのか、受け止めるuなのか、親密感のiなのか、奥ゆかしさのeなのか。特に人名・企業名の分析では、語尾母音は重要である。

乳首窪の平坦化の発達度合いが、指しゃぶりをやめる時期と関係しているのかも知れない。そして骨格と筋肉の構造とも関係があるこれは、N音を発音する訓練によってある程度コントロール可能なのかも知れない。
また、一人称を使い始める時期をムリに早めたり、母親の呼び方を強制したりするのは、よくないということになる。
名づけと呼び方についても、考えるべき点がある。
●マーケティングへの応用のヒント

・ピアノとヴァイオリンの単音(のクオリア)がハーモニーを作り、その時系列の流れがメロディを作り、結果、美しいアンサンブル音楽として私たちの心を打つように、ことばは、ことばの音単体のクオリアのハーモニーとメロディで出来上がる、美しい複合印象なのである。クオリア論からいえば、ことばはこの世で一番短い音楽なのだ。
・世の中の事象を表す自然発生のことばの多くは、意味とサブリミナル・インプレッションが強く関係している。意味がはっきり区別できない語を、サブリミナル・インプレッションで比較すると、境界がはっきり見えてくることがあって面白い。
・M音を聞いたとき、私たちは、とうの昔に忘れた授乳時の、甘く満ち足りたイメージを喚起されるのだ。
・ブランドマントラ 日立 Insire the next

本当に同感だ。
ものを書くのが仕事の自分としては、ことばのクオリアをとても気にする。
自分としては、ことばを奏でている気分だから。
●コミュニケーション技術におけるヒント

・名前は、その持ち主に与えられた美しい祈りである。おそらく、名前には、その方の気持ちをもっとも柔らかく保つ効果がある。なぜなら、その方のいのちが最も活気に満ちていたときに、そのいのちの在りように添って付けられたものだからだ。脳が一番いきいきすることばになるはずである。「おばあちゃん」だけじゃない。四十代の妻だった、名前を呼べば若返るはずである。
・ヒトの脳は、文字列を見ただけでも、その文字列の音を聞いたように聴覚野が活性化することがわかっている。
・音は意味以上に、名の持ち主への強いメッセージを持っている。その、自分のいのちの分身のような名を、これまた成長期には、日に何度も家族や友人から呼ばれるのである。考えてみれば、恐ろしい魔法だ。名前の持ち主にしてみれば、この世の始まりの魔法にして、最も強力な魔法である。
・擬音・擬態語は感性の「パッケージ製品」であって、ときほぐしてみれば、感性の宝庫ともいえるのである。
・頭の悪い上司にからまれるキャリアウーマンたちはドライとキレのKにほっとする。年をとってくれば、家庭的なNやMがだんぜん嬉しくなる。ブランドマントラを目指すなら、商品特性と商品名のサブリミナル・インプレッションの適合性も大事だが、このターゲット市場にとってどうかも無視することができない。
・十二歳までは、幼児期の続きでBやPを愛し、母性のMに癒されている少女たちが、いきなりこの三音を疎ましがって、S、K、Tに傾倒する。これに、全年齢層の女性にキレイを感じさせる音Rを加えた四音が、若い女性にモテる音になる。

逆にいうと、普段どう呼ばれたいかという点で改名を行うとか、
相手をどう認識したいかで、ニックネームをコントロールするとか、
色々な活用ができるはず。もはやこれは魔術だ…。
●日本語と外国語の比較

・私たち日本語人の脳では、「バカ」「ばか」「馬鹿」は、微妙に違う場所で認識されていることになる。
・インド・ヨーロッパ祖語(約9千年前、チベット高原辺りで使われていたとされる推定古語)は西へと進化を続け、その旅の果ての言語が英語だというのは言語学上の常識である。大和田氏は、その一部の音韻が、梵語から漢語に入り込み、東へと旅した可能性に気づいた。そして極西のアメリカ英語と、極東の日本語の中に祖語にあった音韻が今も息づいているのだ。
・アルファベットの字形は発音の生理構造を表しているという説がある
・一説には、電話を発明したアメリカのベル研究所が、すべての音素が電波に乗ったことを網羅的に確かめるための通話テストに日本語を使ったといわれている。事実かどうかは確かめられなかったが、たとえ伝説だったとしても、数学的な組み合わせによって、少ない拍数ですべての子音と母音の関係を網羅している日本語の特性が認知され、海外でこのような伝説を生んでいるのは大変興味深い。
・日本語が母音単音を顕在脳で聴き分けることができる母音語 アルファベット表記の言語を使う人々は、母音も濁音も子音清音といっしょくたに一列に並べて暗記している。従属関係のないように見える26文字を横並びに暗記しているのだ。ただし、この26文字の列は、表記文字の暗記をするためのもの。なぜなら、脳の聴覚野で処理される実際の音声は、この文字単位ではなく、子音中心の慣習的な音韻並び、すなわちシラブル単位で認識されるからだ。慣習的音韻列で刻むということは、おのずから、音声を切り出す音韻単位は多くなる、英語の音韻認識単位は、学者によって説が違うが、千とも二千ともいわれている。日本語の五十音とは桁が違うのだ。
子音中心で音声認識する人々(たとえば英語人)は、ことばの音声を、構造化できないリニアな音声並びだと見ている。仕方がないので、何千という音素並びの「認識のブロック」を作り、そのパターン認識で、他人の音声を聞き分けている。母音中心で音声認識をする私たち日本人は、ことばの音声を、母音五音を基軸にした二次元構造で見ている。音声は、母音を区切りにした拍ごとに認識し、泊ごとの「読み表記文字」である仮名文字を持つ。
ちなみに、日本語の拍のような、数学的に生理された読みの単位のない言語を使う人々が、聴覚野の認識単位に忠実な「読み表記文字」を持とうと思ったら、慣習的音韻列の数、すなわた千以上の文字が必要になってしまう。その上、意味のバリエーションごとに文字を揃えたら何万語だ。脳のデータベースが膨大だとしても、あまりに雑多なデータモデルではないだろうか。そう、これこそご中国の漢字である。漢字は、数学的な拍の概念を持たない言語において、「読み表記文字&意味付き」をやってしまった結果なのである。中国語は、日本語よりもずっと欧米語に近い、子音中心の言語モデルなのだ。
・私は、PROLOGを愛していた。日本語の対話用の語彙の定義をするのに向いているのだ。同じことをLISPで記述しようとすると、苦労する上に、私の作る「対話するコンピュータ」の対話が味気なくなってゆくのだ。LISPで十分だという語感感性なら、私はアメリカ人とはプライベートには付き合えないなぁと思った。
・母音の自然な響きを楽しみながらする会話と、子音で威嚇し続ける会話、相手と融合するために使う裸(自然体)のことばと、相手との差別化のための武装のことば、融合しイエスというための対話と、区別し、ノーというための対話
・私たちは、母音単音を、語として認識しているのである!『日本人の脳』によれば、欧米各国と韓国ならびに日本の被験者のうち、母音単音を言語優位脳、つまり「考える半球(左脳)」で聞くのは、なんと日本語人だけ、という顕著な実験結果が出ているのである。日本語人以外は、単音の母音を言語優位脳で聞いていないのである。つまり、音楽や雑音を聴く領域で処理され、記号として扱われていないことになる。彼らにとって、母音の音声は人間が自然に出す音、すなわち唸り声のようなものであって、記号として認識できない音なのだ。
・日本人の語音感覚は、絶対音感によく似ている。通常は「感じる半球(右脳)」で聴く音楽を「考える半球(左脳)」で聴き、意識的にコントロールできるのが絶対音感。通常は脳の「感じる半球(右脳)」で聴く母音を「考える半球(左脳)」で聴き、意識的にコントロールできるのが絶対語感。私たちは、天才音楽家に不可欠な才能=絶対音感のような特別な才能を、ことばに関して持っているのだ。
・こ絶対語感を持っていることが、実は私たちが、外国語を習得するのが下手だということに繋がっているような気がする。ことばの音に関する天才的な言語能力と、その天才脳に最適な言語モデルである日本語が存在するために、粗雑な他言語に馴染まないのではないか。粗雑な楽器だから弾けない、というのはプロではない。ただ、粗雑な楽器を日常的に使うわけにはいかないのだ。演奏家の繊細な感性を痛めつけることになる。

英語と中国語に触れる機会がとてつもなく増えている。
自分もそうだけど、これからそれを学ぶ子どものためにも、知っておいてよかった。