これから始まる真の危機
首都圏三千万人の避難は、なぜ避けられたのか?
事故直後の3月29日から5か月と5日間、
内閣官房参与を務めた原子力工学の専門家が、
緊急事態において直面した現実と、極限状態で求められた判断とは?
どんな政治家の話よりも信頼できる、原発と原発のこれからの話。
実はこんなに大きなリスクがあるという現実が見えている人は、
どれだけいるのだろう…。
●政府への信頼
・例えば、ある企業に一人のプロジェクト・マネジャーがいたとします。そのマネジャーが、これまで54のプロジェクトを運営してきた。幸い、これまでは、小さなトラブルは幾つかあったが、大きなトラブルは起こさずにやってきた。ところが、ある日、このマネジャーが運営するプロジェクトの4つが大きなトラブルを起こし、会社が父さんの危機に瀕するほどの深刻な問題を引き起こした。ところが、この状況において、このプロジェクト・マネジャー(政府と電力会社)は上司(国民)に対して、トラブルを起こしたプロジェクトの徹底的な原因究明も終わらない段階で、そして、プロジェクトの運営方法の徹底的な見直しと改善もしない段階で、「あの4つのプロジェクトは、大トラブルにはなりましたが、他の50のプロジェクトは大丈夫ですから、このまま進めさせてください。そして、私に引き続きプロジェクト・マネジャーを任せてください」と言ったとします。さて、通常の社会常識で考えたとき、この上司は、どう考えるでしょうか。
・政府が、福島原発の状況について国民に安心してもらうために、そして、帰宅を待ち望んでいる福島の避難住民の方々のために、意欲的な計画を発表する気持ちは分かるのですが、30年から40年という期間は、専門家から見ると、やはりかなり楽観的な計画に見えます。
・「そうではない。英雄を必要とする国が不幸なのだ」我々は、我々自身の中にある「誰か強力なリーダーが現れて、この国を変えてくれないか」という「英雄願望」を克服していかなければならないのでしょう。
ここのPMの話はとってもわかりやすい。
こんなつかえないPMは、普通の企業で考えたらクビ。
政党政治とか代議制という現在の国体をどうにかして変えないと。
●リスクマネジメントの考え方
・原発の安全性の議論において、「確率論的安全評価の思想」をどう考えるかという問題です。言葉を換えれば、「たとえ可能性が極めて低くとも、万一のときの被害が受容できるレベルを超える甚大なリスクをどう考えるか」という問題です。
・「事故の発生確率」を考えた「期待リスク」の考え方は、保険会社のように「数多くの事故」を対象として統計的に対処する立場にとっては、意味があるのですが、「実際の事故」を起こしてしまった人間にとっては、そして、「たった一回の事故」で人生を棒に振る人間にとっては、あまり意味の無い思想なのです。
・簡単に「事故の被害は極めて甚大だが、発生確率は極めて低いから」という確率的論理や統計的論理で軽々に語ってはならないのです。なぜなら、「現実」にその事故が起こったときに、後解釈で、「確率は低かったのだが」と論じても意味がないからです。
・第一の原則は、リスク・マネジメントにおいては、「最も厳しい仮定に立つ」ということ。すなわち、統計的に確認できるか否かにかかわらず、例えば「0.5%発癌死亡率が上昇する」という前提に立って、それを回避するための最善の行動を取るということです。
・第三の原則は、「空振りの損失コストは覚悟する」ということ。
・「リスク・マネジメント」の三つの原則から考えて、最も取ってはならない判断は、「この基準を厳守すると、かなりコストがかかる、従って、実際には大した健康リスクは無いだろうから、当面、基準を緩めよう」という「経済有線主義的」な判断です。
損失コストを覚悟するというこの原則に従うと、
やはり子どものためには、「引越し」も考えなくてはと思う。
●原発の限界
・仮に明日、「原発反対派」の政権が成立し、原子力からの完全撤退を決め、現在国内にある54基の原発すべてを停止したとしても、それらの原発を完全に廃炉にするのに、少なくとも30年はかかるからです。そして、たとえ「原発反対派」の政権であったとしても、この原発の廃炉と放射性廃棄物の処分の問題は、必ず対処しなければならない課題であり、
・今後、我が国では、30年以上、原発の新増設ができなくなるからです。そして、もし、今後、原発の新増設ができなければ、原発の寿命を40年と考えて、現在稼働している原発も、遅くとも2050年頃には、すべて寿命を終え、自然に無くなってしまうからです。
・福島原発事故よりも二段階も軽微なスリーマイル島原発事故でさえ、その結果、全米で30年以上、原発の新増設ができなかったという事実があるのです。
・「原発に依存しない社会をめざす」というメッセージと、「原発を全部一挙に止めてしまう」という過激なメッセージが混同されている。
もう、限界なんだ。
●トイレなきマンション
・全国の原発は、サイト内での使用済み燃料のプール貯蔵は、もう限界に近づいているのです。
・六ヶ所村の処理工場は、使用済み燃料の再処理工程そのものは、当初の計画通り進んでいないからです。
・政府は、福島県民の方々に対して、「放射性廃棄物は福島には捨てません」と約束してしまっています。では、他のどの地域が、将来、最終処分場を受け入れるのか。
・残念ながら、「宇宙処分」は、打ち上げ時の爆発・飛散などのリスクがあり、また、「消滅処分」は、かえって厄介な放射性核種を増やしてしまうという問題点が指摘されています。
・汚染した枯葉を集めても、その焼却ができないため、捨て場がないという問題に直面します。さらに、除染に使った水も、それを下水に流すと、下水処理のプロセスで放射能が汚泥に濃縮・蓄積され、結果として、流した水よりも放射能濃度が高い廃棄物が出てくる結果となります。
老人たちは、我々の世代にたくさんの宿題を残していった。
我々の世代は、老人たちがつくってきた負債を、どうにかしなくてはならない。
そんな風に覚悟を決めて変えたいと思っているのに、
しかし、その老人たちが、悪びれもせず、既得権力を手放さない。
一線から引かないというのが最も大きな問題がある。
もう、こんな世界にした老人たちからは、即刻、すべての特権を剥奪すべきだ。
●精神的被害
・日々、将来の健康に不安を感じながら生活することを余儀なくされる。そのこと自体が、「精神的な健康」が損なわれたという意味で、極めて大きな「健康被害」なのです。
・「安全確認モニタリング」については、「周辺住民の方々の安心を確保するための必要コストである」と理解するべきでしょう。
・たとえ微量といえども子供の尿にセシウムが検出された母親は、その不安を抱えながら生きていくことになるのです。それは、専門家がどれほど「心配しすぎだ」「気にする必要はない」と述べても、当人たちにしか分からない「精神的トラウマ」となって残り続けるのです。行政に求められるのは、まず、こうした「不安」を抱えて生きる方々への「共感」であり、その心の苦しみを理解しようとする「機微」なのです。今回の原発事故によって、国民から政府への「信頼」が失われたのは、「事故を防げなかった」ことや、「事故後の対策が不十分だった」ことだけが理由ではありません。「住民や国民の気持ちを理解してくれない」ということも、国民から政府への不信となっていることを、我々は知るべきでしょう。
国民の怒りの原因は、まさにこれだろうと思う。
これは、国レベルじゃなくても、夫婦でも親子でも、同じ話。
わかってもらえないというのが、最もつらいのだ。
そんなことも理解できない鈍感な対応をする政府というのは、
きっと、構造のせいなのだろう。
一人一人の人間は、きっとやさしいはずだ。
●最も危険だったもの
・この冷却機能の長期喪失という最悪の状態が起こった場合、福島原発で「最も危険」であったものは何か。実は、それは、「原子炉」ではなかったのです。意外に思われるかもしれませんが、それは、「使用済み燃料プール」だったのです。具体的には、福島原発四号機の使用済み燃料プールが、最も危険な状態に陥る可能性があったのです。使用済み燃料プールとは、状況によっては、「剥き出しの炉心」になってしまうからです。あの事故当時、四号機の使用済み燃料プールには、千数百本の使用済み燃料が保管されていましたが、そのうち、数百本は、原子炉から取り出して時間が経っていないものであり、まだかなりの熱を放出する核燃料であったことが、この危険性をさらに深刻なものにしていたのです。
知らなかった…。
だからこそ、トイレなきマンション問題が、
とても深刻なのだということになる。