頭がいい人、悪い人の話し方

仕事において、家庭において、自分の言葉は相手にうまく伝わっていないのではないか、誤解されているのではないか、と思うときがある。自分の話し方のどこがいけないのかについて考えたくて、読んでみた。


●自分が気をつけなくてはいけないと思った話し方
・詭弁も用いて自説にこだわる(それまでみんなが話していた言葉の定義を覆す)…昔の話
・丁寧すぎる(細かいことにこだわりすぎる)…今の話
の2つ
ここに書かれている、周囲を困らせる話し方をするような人は、頭が悪いというより、感情的に安定していない、精神的に問題がある人なのだと思う。
若者の場合や症状が軽い場合は、精神的な未熟さということで済むかもしれないけれど、それ以外の多くの場合では、何らかの精神疾患をもっているとか、更年期障害であったりと、心理学的な治療が必要な人が多いように思う。
そしてまた、現代社会において、そういう人が多いということは、人間が全体的に子どもであるとか、欲求不満な世界だということなのかも知れない。海外から帰国した人の多くが「日本人が幼稚化している」と感じるというけれど、この話ともつながるような気がする。
また、困った人への対処の仕方のところが、参考になった。
私の周囲にも、ここにかかれてあるような困った人が何人かいる。
●他の困った人への対処の仕方
<他人の権威を笠に着る人へ>
(すでに出来上がった他人の意見や理論を繰り返すだけでは、言葉を発している意味がない)
→ では、自分の意見は何なの?
→ 部長の意見はわかった。では、あなたはそれに無条件で賛成なのか。それは、なぜなのか
→ フェミニストがそう言っていることは承知しているので、それ以上、言ってくれなくてもいい。もし、あなた独自の考えがあるのなら、言ってほしい
<自分を権威づけようとする人へ>
(知的な人間であればあるほど、暴力的な言動に対してうまく対応できない)
→ 補足してやることだ。批判せずに、賛成する形で、もっと別の、もっと論理的な根拠を示すことだ。
そんなふうにして、ある種のブレーンと思わせておくと、その後、少々反論しても、面倒をみてくれる。
●その他メモした言葉
・教養とは、自分とは別の価値観も許容するということだ。自分だけの狭い価値観にとらわれず、別の価値観を理解し、広い立場に立って判断できるということだ。自分の価値観から一歩も出ないで、別の価値観で行動する他人を断罪するのは、いわば、別の国の法律で罰するようなものだ。それでは、知的な態度とは言えない。
・本来なら、教えていることの百倍くらいの知識がバックボーンとしてあってこそ、的確なことを教えることができる。
・他人の行動の中に、裏切りや陰謀や当てこすりを見るということは、自分もそのようなことをしていると告白するに等しい。
・差別をするということは、ある種の人の人格を認めないということであって、それは偏狭な精神を意味する。言い換えれば、まさしく教養がなく、多様な価値観を認めることができないということだ。

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