子どもへのまなざし

自分は、どんな目で子どもを見ているのだろう。
子どものありのままを受け入れているだろうか。
コントロールしようとしていないだろうか。
今日読んだのは、そんな自省を促してくれた一冊。
そしてまた、子育てについて考えることは、
自分がどのように育ってきたのか、
自分がどんな心理的な問題を抱えているのかについて知ることにつながる。
つまり、自分の潜在意識の探求につながっている。

●原則 – 心得

・ありのままの子どもで十分満足だという気持ちに、親がどれだけなれるかということがたいせつなのです。そのことは、子どもにとっては最高のやすらぎです。ありのままの自分で、親は喜んでくれるわけですから。
・いつもは、ちゃんとさっさと歩いて帰る子どもが、「おんぶして」というような日は、たいていは、ちよっと悲しいこととか、つらいことがあった日のことが多いのです。何ちゃんとけんかして泣かされちゃったとか、先生に怒られちゃったとか、そういうことがよくあるのですね。いつも、ちゃんと歩いて帰るのに、その日にかぎって、おんぶしてとか、ぐすぐずしているというのは、たいていの場合そういうことがあったときです。
・泣いたら泣いたことをしずめてあげるだけで、「泣かないの、泣かないの」なんていう必要はないのです。泣きたければ泣きなさいと、それでいいのです。そんな気持ちでゆったりと、見守ってくださるといいのですね。
・「お母さんは昼間、仕事でいそがしくて疲れているのだから、そんなこといわないでちょうだい、がまんして自分でやりなさい」と、こういうことは、ぜったいいってはいけないことです。可能なかぎりいわない努力が必要なのです。
・子どもの笑顔や喜ぶ姿に、ご自身が喜べるご両親であってほしいということです。親の希望どおりのことを、子どもがしてくれることに喜びを感じるのではなく、子どもの希望にこたえられることに、幸福を感じられる親であってほしいということです。
・大学の教育なんていくらでもやり直しがきくのです。ところが、10歳になってから保育園というのはないのです。

正対すること
共感すること
全面的に受容すること
敬意を持って接すること
信頼して待つこと
というところなのだろうかな。

●母親のサポートこそが大切

・年齢とかかわりなく、いま住んでいるところでの、居住年数が短いお母さんのほうが、長く住んでいるお母さんよりも、不安やいらだちが大きいということがわかりました。
・自分では「消極的・非常に消極的」だと感じている人に、圧倒的に育児不安が多いということもわかってきました。
・友人や知人、あるいは保健所の保健婦さんや近所のかかりつけの医者とか、実家の母親に相談するというふうに、人を頼りにする人より、育児書や育児雑誌に不安解決の回答を求めようとする人のほうが、はるかに不安が大きいということもわかりました。
・専業主婦のお母さんのほうが、仕事をもっているお母さんよりも、育児不安は大きいということもわかってきました。
・ふだんから疲れやすいと感じるお母さんのほうが、病気で治療をうけているお母さんよりも、育児不安やいらだちが大きいことがわかりました。
・ようするに、人間関係が少ないお母さんほど、極端なことをいうと、育児が下手になるということです。ですから、人間といのは、人づきあいが少なくなればなるほど、あるいはできなくなるほど、不安が強くなり、いらだちが強くなり、疲れやすくなるということが、どうもあるようです。
・「心配なことがあったら、24時間、365日、どうぞ私のところに電話をしてください。私には十分な能力があるわけではないけれども、私にはたくさんの友人や知人がいる、すぐれは医者もいる、乳児の専門家もいる、だから、私にできないことはいっぱいあるけれども、どこのだれさんにお願いしたらいいですよというようなことは、いつでも教えることができますから」というようなことをいってあげるのです。これだけでも、かなりお母さんには安心なのですね。いつでも相談にのってもらえる人がいるという、この安心感がたいせつなのです。
・たいせつにされて育てられてきた親が、自分の子どもにそんなふうにするはずはないのですから。子どもの味方をするあまり、親を敵にまわしてしまうことがあってはならないのです。親の幸せを考えないで、子どもの幸せだけを考えても、これはぜったい子どもを幸せにすることはできないのです。

自分の子の場合はもちろん妻のこと。
そしてほかの子の場合も同じ。
母親をサポートする姿勢が、子どもを幸せにする。

●自尊心 – とても大切なこと

・待ってあげる姿勢は、子どもを十分信頼しているという気持ちを伝えることにもなります。このことは子どもへの愛を、子どもにもっともわかりやすく伝えることになるのです。
・人間はだれもが安心して生きていきたいから、自分をできるだけありのまま認めてくれる人を、一生懸命みつけようとします。まず親とか祖父母とかに、無条件の愛や受容を求めようとします。ほぼそれにちかい承認のされ方をして育ってきた子どもは、無理して友達を求めないで、むしろ、友達を承認したりしています、余裕があるのです。反対にそれが少なかった子どもは、だれかに承認してもらおうと友達をさがします、受容してくれる人をつぎつぎとみつけようとしますね。
・一般に、親や家族から十分受容されてきた若者は、中学生や高校生ぐらいの早い時期に、すごい恋愛に陥ることは少ないですね。
・「ああ、いってやるよ、そういう場合のためにお父さんはいるのだから」と、そういうときには、それだけをいってあげるだけでいいのです。そういうふうに、子どもが安心するように、ちゃんと親が失敗をとりつくろってやったからといって、子どもは安心して、また失敗するなんてばかなことはしないのです。「もう二度とこんなことするんじゃないぞ」なんていう必要はないのでてす。それをいわないがまんというのも必要なのです。「どうして」なんて聞かれたって、子どもに答えられるものではないですよ。残酷な質問ですね。
・ベーシック・トラスト 人を信頼する感性や感覚は、乳児期にもっとも豊かに育つ
・三日ぐらい泣いて翌日まで待てるようになった子どもは、むしろ困難に対して早くギブアップする子だということがわかったのです。忍耐強くないのです、反対なのです。
・三日にしろ、二週間をこえてにしろ、結局はだめなものはだめだということで、泣きやむしかなかったということは、子どもの心に周囲の人や世界にたいする漠然とした、しかし、根深い不信感と自分にたいする無力感のような感情を、もたらしてしまうということです。
・深夜であろうとそうでなかろうと、泣くことで自分の要求を表現すれば、その要求が周囲の人によって、満たされるということを体験し続けた赤ちゃんは、自分をとりまく周囲の人や世界にたいする信頼と、自分にたいする基本的な自信の感情が育まれてくるのです。
・乳児期であれば、おっぱいがほしいときにすぐ飲ませてくれた。幼稚園の昼食のとき、弁当のふたをあけた瞬間に、自分が愛されていることを感じとれるような、心のこもったお弁当をつくってもらった。このような心の満ち足りた依存経験を、十分に親から与えられた子どもは、それだけ親のいうことをよく聞きますし、また、必要なときの親ばなれや自立もスムーズにいくようです。
・おんぶとか、だっこというから、そのたびにしてあげたからといって、子どもが歩かない子になったなんてことは、みたことがありませんね。おんぶといったときには、おんぷしてもらえる、だっこといったときに、だっこしてもらえた子どものほうが、本当は安心してしっかり歩くようになりますし、精神的に自立していくのです。
・本当に相手を信じる力が育つのは、自分でそのことをしたいのに、自分ではその能力がなくてできないというときに、だれかにやってもらうということなのです。そうしてもらえればもらえるほど、その相手にたいする信頼感は大きくなります。もっと大きくなってから、子どもが、自分でやればできるようなことを、してもらったからといって、かならずしもそんなに大きな信頼感にはなりません。こうしたいけれども、自分ではできない、外へいきたいけど僕は歩けない。おんぶやだっこしてもらわないと、外へいくことができないという子どもが、泣いてせがんで散歩につれていってもらったというだけで、相手にたいする豊かな信頼感が育つと思うのです。ですから、そういうことは、乳児期から早期幼児期が、もっとも感受性が豊かに育つということです。
・しつけというのは、子どもの自尊心を傷つけるようなやり方でしようとしては、ぜったいにいけないのです。それはしつけなんかではないのです。反逆心、敵意、憎しみ、そういう感情を内在化させるだけです。大人と子どもなのですから、対等じゃないのですから。子どもがいい子でいてくれたら、こちらもいうことを聞いてあげるなんていうのでは、これは大人と子どもの関係ではありませんね。親子で本気になって、対等にけんかしている人がいますが、そういうことは両方にとって不幸なことですね。それは大人が成熟不全だといってしまえば、それまでのことですけれども。
・その子が明らかに悪いことをしたり、ルール違反をしたというときに、みなさんがしかったとします。そのとき、その子がまわりの人に不信感の強い子であれば、敵意と攻撃的な感情をもちやすいのです。そして、ひねくれたり、すねたり、いっそう劣等感をもったりというような感じになってしまいます。ところが、乳児期に自分の希望が満たされる保育をされてきた子は、「K子ちゃん、それはいけませんよ」としかっても、「はい」、「あ、いけない」と、それだけの気持ちですんでしまうのです。それは、相手の人にたいする基本的な信頼感が大きいからです。
・休日のつぎの日に、「お休みのときなにをしていたの」と、子どもたちに話してもらうことがよくあるそうです。すると、子どもたちは「ディズニーランドにいった」、「シーパラダイスにいった」、「デパートに買い物にいって、いいものを買ってもらった」などと口ぐちにいいます。そのなかで、とても印象的だったのは、「きのうね、お母さんがつめを切ってくれたの」という子どもの話でした。お母さんのひざの上にだっこされながら、お母さんの肌のあたたかさを感じながら、つめを切ってもらった記憶が、とてもいいイメージで、その子どもの心に残ったのでしょうね。そういう言い方だったと保母さんはいっていました。

この本の中で、これでもかこれでもかというほど、
くり返し強調されている点。それがこの、ベーシックトラスト。
依存を経て、自立/自律のプロセスに進むことができる。
はじめから依存を無視するなんてこと、絶対にしてはいけない。
理解のない旧い世代の考え方とか、周りの目とか、
そんなものは、無視していい。

●社会性と友達の重要性

・私たちは、今日、どうしたら人といっしょにくつろげるかということを、多少、努力をしてでも、こころみるべきだろうと思います。子どもを連れて家族だけで小旅行をするとか、動物園にいくというのは、確かに気楽で気兼ねがないです。けれども、そうではなくてお隣の家族をさそっていくとか、親が兄弟同士だと子どもにとっては、おじさん、おばさん、向こうの子どもは従兄弟になるわけですが、そういう親戚の家族といっしょに、でかけてみるということも必要ではないでしょうか。
・知識や技術は、それだでは人格と無関係だということも、ひょっとすると、多くの親は知らないのかもしれませんね。子どもの人格の中心の部分は、そんなことだけでは育たないのです。
・子どもは、本当にいろんな人との関係のなかで育ち、仲間との交流をとおして、たがいに育ち合うのです。ですから、子どもを育てるということは、まず親自身が、どういう人たちと、どのようにコミュニケーションをしながら、地域社会で日々生きているのかということを、子どもにお手本を示すことが必要でしょう。
・誰にも善意と悪意はあるのですが、親は子どものなかに、善意のほうが豊かに育つように心がけてほしいものです。そのためには、子どもを育てている人が、周囲の人たちの善意の面を信じてつきあうようにすればするほど、相手もこちらを善意に思ってくれるわけです。
・ソーシャル・レファレンシング 幼い子どもが、はじめて出会ったことにたいして、「どうすればいいのかな」とふり返ったとき、親や祖父母や保母さんや幼稚園の先生などの視線が、かならず見守ってくれていて、そして、どうすればいいのか教えてくれる。そういう過程をとおして、幼い子どもの中に育っていく人間的な感情や感性
・ソーシャル・レファレンシングは人間が社会的なルールを守りながら生きていくために、その基盤をなす重要な感情であるともいえます。
・授業の落ちこぼれよりも、休み時間や放課後の落ちこぼれのほうが、人格形成の上でははるかに深刻だということです。このことは本当に、なかなか理解されにくいのですが。
・遊びのなかで規則がきびしくなればなるほど、役割が困難になればなるほど、遊びは緊張に満ちてきます。しかし、この緊張の大きさが遊びの感動の大きさに比例するのです。だから、緊張のない遊びというのは感動も小さい。あるいは感動もない。
・こういう遊びを経験することが、社会的人格、ルール違反をしないで社会生活をすることができる人格をつくるために、決定的にだいじだというこをヴィゴツキーはいっているのです。
・子どもにとってたいせつなことは、勉強の前に、友達と遊ぶことが十分にできるようになっていなければ、結局、社会人になっていけないということです。このことを大人はよく認識しないといけないことなのです。
・親の重要さは、非常に大きなものがありますが、親がわりの人がいてくれれば、親でなくてもいいわけなのです。ですから、親がいなくても、健全にりっぱに育った人は、世の中にいっぱいいます。しかし、友達なしに、社会人として健全に育った人は、なかなかいないのではないでしょうか。
・小学校時代にはできるだけ多くの仲間と、理想をいえば、どんな子どもとでも友達になれる、おしゃべりができる、いっしょに活動ができるというのが幸せなのです。友人関係をいっぱいもつというのは、結果として広く、浅くなるのですが、小学校時代の子どもには、それがいちばん健康なことなのです。

問題は、既に歪んだ状態にある大人や子どもたちとの交流をどうするか、という問題。
友達は大切だけど、それがどんな友達なのかということも、また重要だと思う。
私が子どもだったころに比べると、病んでいる親は確実に増えている。
つまり、その親に育てられた、病みつつある子どもが、増えている。
そういう子どもであっても、社会性ということは、意味があるのだろうか。
とても悩ましい問題。

●待つこと – しつけの要諦

・とてもたいせつなことは、くり返しそのことを伝え教えながら、本当にあなたがここで上手にできるようになるのはいつか、楽しみに待っていてあげるからという気持ちですね。そして、その時期は自分で決めなさい、自分で決めればいいのですよといってあげることです。そういう態度で接してあげることです。しつけというのは、基本的にはそういうことなのですね。
・子どもたちは、しつけをされることがいやなのではないのですね。しつけをされることは、子どもたちにとっては、ある意味では喜びなのです。新しいことを知ることや身につけることによって、大人の仲間入りができるようになることですし、できないことができるようになることですから、子どもにとっては喜びなのです。ですから、本来、しつけをされることは悲しいことでも、苦痛なことでもないのです。子どもというのは、しつけられる経験をとおして、自分で自分の衝動をコントロールする、自分で自分を管理することができる力が、身についていくことに喜びを感じているわけです。子どもは、向上し発達していくことが最大の喜びです。
・箸の使い方にしても、洋服を着たりぬいだり、靴をはくことも、子どもはみんな自分でやりたいのですね。ところが、すぐにはできない。その手順を教えながら、いつ自分ひとりでできるかは、子どもが自分で決めればいいのです。できない間は手伝ってあげるから、心配いらないというメッセージを伝えながらしつけるのが、うまい育児だと思います。
・伝えるところまでがしつけでありまして、いつからできるようになるかは、子どもまかせにしてあげるところに、しつけのいちばん重要な鍵があるわけです。ですからいちばんいけないのは、おしっこを教えるのに、「できるまですわってなさい」と、こういう態度です。こういうやり方が自律心の発達を、最大にさまたげるのだと思います。他律ですものね。子どもの行動をほかの人がコントロールしているのですから。子どもに決めさせてやらないのですから、自律性が育つはずがありません。
・しつけをするときにたいせつなことは、くり返しきちんと教えて、それらが実行できる時期はゆっくり見守ってあげながら、できるだけ子どもまかせにしてあげるということなのです。子どもからすれば、たいせつなことはくり返しよく教えてくれて、しっかり上手にできるようになるのを、あせらずにいらだたないで、じっと待っていてくれることなのです。親や保育者にたいする信頼感と尊敬の気持ちは、こんなふうに育てられるところが大きいと思います。

しつけをしない のは放任。
かといって、パワーで強制をするのは過干渉。
頭で理屈を教え込むのも、覚醒を促がしてしまい、ちょっと違う。
正解は、伝え、そして待つということ。
今の時代、わずかな時間ですら待つことができない人が増えている。
でも、それは本当に急ぐべきことなのか?
急がなかったらどうなるのか?
そのことを、もう一度見直す必要がある。
現代人の私たちは、インスタントに、慣れすぎているのだ。

●思いやりは、親の態度から

・思いやりはどうやったら育つのか 思いやりの気持ちはほうっておいても育つわけではないのです。私は思うのですが、これは、だれかがだれかを思いやっている姿を、日ごろから身近にたくさんみる必要があるのです。たとえば、親切な子に育ってほししいと思うなら、親切な人をたくさんみながら育たなければならない、そうしなければ子どもの心のなかに親切というものは育たないのです。
・基本的には教育というのは、たいていの場合、相手のいうことを聞いていればいいのです。精神科の臨床もそうです。患者さんのいうことをゆっくり聞けばそれでよろしいわけです。みなさんもできるだけ口でやる教育はさけて、心とかしぐさとか物腰、行動で教育をしてくだされば、それはすばらしいことなのです。
・そういう人たちの悲しみや不幸を、いっしょに悲しんであげることができたら、子どもに思いやりがだいじだなんて、口でいう必要なんかはないのですね。ひとこともいう必要はないわけです。その感じ方、共感の仕方の程度や頻度にしたがって、子どもの心に思いやりの感情は育っていくのです。思いやりなんていうことは、口でいって、ぴんとくるものではけっしてありませんし、育つものでもありません。

ここは、耳がいたい。
世の中に対して、社会に対して、夫婦に対して、
われわれはどのように接しているだろうか。
親に思いやりがないのに、子どもにそれを求めるのは、
とんでもない話だということ。

●好奇心 – 遊びの重要性

・高さの性質は、ある高さから飛び降りることによって、知ることができるのです。水の性質は、さわったり飲んだり、水で洋服をぬらしたりしてみることで、はじめて知ることができるのです。あれこれいろんなことをすることによって、理解するだけではなく、考えることや判断する力も身につけていきます。斜面の性質は、のぼったり、すべって転んだり、洋服をよごしたり、ひざ小僧にけがをしたり、たんこぶをつくったりして学ぶわけです。

放射線が心配な時代、
この探索と冒険、実験を自由にさせてあげるための環境を、
どうすべきか。
今、とても悩んでいる。

●この時代の病

・昔の育児では、だれもあせらなかったですね。子どものいうことを、だれもがゆっかくり聞いてあげたのです。貧しくてなにもかも不自由だった時代には、育児が思いどおりにいかないことぐらいで、親などの保護者はいらいらしなかったのです。ところが現代では、多くのことが自由になって、子どもがちょっと思いどおりにならないと、腹を立てたり途方にくれたりしてしまいます。昔はいろんなことが、意のままにならないのがふつうでしたからね。
・私たちは今日、面倒なことはなんでも、お金ですませてしまおうとする習慣が身についてしまったものですから、思いやりのような、親が自分の家庭でやらなければならない人間らしい面だけは、子どもの心に育てられなくなってしまいました。ですから、お金で買う便利さになれてしまって、多くの人は、なかなか便利にならない育児にいらだっているのが現状です。
・現代社会は、ものの生産と消費の量によって文化の水準をはかろうとするような、愚かなことをやってきました。すなわち私たちは、ものと欲望をどんどん生み出すようなしくみに、ほんろうされ続けてきました。そして、いつも欲求不満でいるように操作され続けてきました。満足するとか、感謝するといった気持ちを失い続けてきました。ですから、日常的なささいなことに感謝することは、なかなかできなくなっていると思います。
・経済的に、物質的に豊かな社会の人ほど、こんなことがおきたときには外罰的、他罰的になるそうです。

一度、とてつもなく不便なところで生活する、リアルに体感する。
そういう訓練が、父親にも母親にも、必要だ。
幸い私には、それが多少なりとも、ある。
妻にも、もう少しそういう経験をしてもらった方がよいかも知れない。
アジアの旅でもいいし、
長期間のサバイバルに近いキャンプでもいい。
寺での生活でもいいかも知れない。
とにかく、そういう経験。

●精神的虐待 – やってはいけないこと

・親が幼い子どもにすがりつくというのは、どういうことかというと、自分の思いどおりの子どもにして、なぐさめられようとするのです。不安が大きい人ほど、子どもを操作しすぎると思います。自分が気に入るような子どもにして、精神的に満たされようとするのです。
・物理的、身体的虐待もありますが、精神的虐待というのもいっぱいあるのです。
・子どもにたいして過剰な期待をするということは、こちらとしては子どもにたいする愛情のつもりでいても、過剰期待をされている子どもがうける心理的な意味は、拒否されているのとおなじことだということ なぜかというと、現状のあなたには満足していないんだということを、別の表現を使っていっているだけなのですから。
・過剰期待の意味は、子どもの精神保健や子どもの教育、保育にたずさわる者としては、「いろはのい」として、よく知らないといけない基本的な事柄なのです。
・子どもにいろんなものを与えるだけ与えたいという、与えるだけ一方の愛情だったら、早期教育は子どもにとっても、すこしも悪いことではありません。子どもに与えるだけで、いやならふり向かなくてもいいというものなら、結果は問わないのですから。成果を気にしないで、淡々と早期教育をするというのは、それはいいと思いますね。それですと子どもは、ある程度のびのびとうちこめると思います。うまくいってもいかなくても、結果がよくても悪くても、成果があがってもあがらなくても、親がそのことに一喜一憂しないのですから。この子の将来のために、早くからこういうことをしておいてやりたいという人がいたら、それまで、私はいけないというつもりはないのです。けれども多くの場合は、子どもがやってくれる好ましい結果をみて、親は喜ぼうとしているわけです。これも度がすぎれば、子どもの虐待ですね。そういうものは親の自己愛ですよね。
・いろんなところに今日の親は、子どもを自己愛の対象にしてしまうのです。いろんな教育をするのも、いろんな洋服を着せるのも、子どものいやがる靴をはかせたり、帽子をかぶせたり、むりやりいろんな髪型をさせるのも、しばしば、親の自己愛の投影なのです。
・過剰干渉というのはどういうことかというと、子どもが望んでいないことを、やらせすぎるということです。これは子どもをだめにすると思います。自立心をなくしてしまう、自主性をなくします。

過剰期待が、子どもの拒絶であるということ。
この大原則を伝えたい人が、たくさんいる。

●歪んだ状態

・それを、治療者を頼らないで自分でやる人が、このごろはいっぱいいます。うんと年上の人に恋愛をしたり、あるいは年上の人でなくても、つぎつぎに恋愛の対象をかえて、なんとか安定しようとします。とにかく優しい人を見つけ、自分の思いどおりに相手を操作できる人を見つけようとします。乳児が優しい母親を操作するように、おんぶといえばおんぶ、だっこといえばだっこ、おんもといえばおんも、あっちといえばあっち、ぱいぱいといえばぱいぱい…。そういうとをすぐしてくれる人をさがします。そういうふうに、自分が操作できるような人を見つけようとしまするボーダーライン・パーソナリティといわれるような人は、精神科の医者をそのように操作しようとすることが多いのです。
・幸福な人は夜中に歌をうたうとか、お酒を飲みにいくという小さな欲求なんか、すぐに抑制できる、おさえることができるのです。そのほかのことがおおむね幸せなのですから。人は幸福であればあるほど、そのとき必要な抑制はきくのです。がまんができるのです。しかも、がまんなんて思わないでできるのです。自分の欲求をおさえられない両親の子どもに、思いやりが育つはずはもちろんありません。
・喜びと悲しみの感情というのはひとつのセットになったものですから、たぶん、片方だけ強いという人はいないわけです。また、おなじようにセットになった感情として、優越感と劣等感もあります。
・乳幼児期がうまくいかなかったときには、あとでいろいろなことをおぎなってあげなくてはいけないのです。それは、おそくなればおそくなるほど困難になります。時間もかかります。借金のように利子が大きくたまっていくからです。

逆にいえば、不毛な恋愛をしている人というのは、
精神科医や心理療法科の治療を受けるべき状態にある人ということも、できる。
思ったとおりだ。

●思春期の傾向

・親は、いったんはじめたのだから、ひちとつのことを最後までやりとげなさいなんていいますね。しかし子どもにとっては、そんなことやっている時間はないのです。つぎのものを自分で見つけなくてはという、そういう思春期特有の自分さがしというだいじなことがあるのです。若者のときは、そういう自分さがしというのが、かならずあるものなのだから、いろいろとやってみればいいのです。
・思春期や青年期の若者を、親がおんぶやだっこはできないですね。なにをするのかというと、心をこめた手づくりの食事を、子どもの好みに合わせて、できるだけ根気よくつくってあげる。ふだんから「なにが食べたいの」と、折りにふれて聞いてあげる。そしてあのとき、「僕はカツオのタタキが食べたいといったから、お母さんは買っておいてくれたのだ」、と思えるような食事が日常的に用意されている。ぜいたくをすることでは、まったくありませんけれども、心がこもった食卓というのは、非常に重要だといつも思います。それは子どもに生きていく力と実感を与えるものです。

食事の話は、とても大きな学びを得られた。
確かに、そう思う。これが鍵だと思う。
そして、マウスイヤーの時代では、
「続けることの意義」
という一見正しそうな考え方に縛られないことも大切だ
ということに、きづかされた。

●その他

・小さいときに遊んだなつかしい自分のおもちゃには、大きな愛着があるのです。理由もなく、とっておきたいというのです。
・幼い子どもたちは、「○○になりたい」そういったとたんに、なれると思っているのです。とてもむりだなんて、けっして思わないのです。
・お母さんが妊娠中に胎児によく聞かせた音楽とか、お母さんがよくうたっていた歌で赤ちゃんが生まれたあとに子守をすると、子守歌の効果が大きいということもいわれています。妊娠中にはまったく別の歌をうたっていて、赤ちゃんが生まれてから急にモーツァルトの子守歌をうたっても、これはだめらしいのです。ですから、子どもが生まれたときには、これをうたってあげようと思う子守歌を、妊娠中から胎児のためにうたってあげることがいいのです。そして、お腹のなかの赤ちゃんを休ませてあげよう、寝かせてあげよう、なんていう気持ちでいるのが、この時期いちばんいいのですね。