人間を磨く

人間関係が好転する「こころの技法」
なぜ、欠点の多い人間が好かれるのか?
今すぐ実践できる「7つの技法」

人生の解釈力 という言葉が印象的だった。
田坂さんの本はどれも、
将来、ある程度の年齢になった子どもたちにも
読んでほしい。

●人生の解釈力

・人生とは不思議なもので、その問いに正しく答えを出し、出会いの意味、出来事の意味を、正しく解釈すると、なぜか、自然に目の前の問題が解決していく。すなわち、こうした場面で、我々に真に問われているのは、「問題の解決力」ではなく、「人生の解釈力」に他ならない。
・「どうやって、この問題を解決するか?」という視点で考える前に、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」という視点で「出来事の意味」を解釈することができるならば、しばしば、直面している問題は、不思議なほど自然に解決していく。
・「人生の解釈力」とは、「人生の物語」を生み出す力のこと
・この二つの解釈、「どちらが正しいか?」という議論には、意味がない。そこには、科学的法則のように、誰が見ても正しい「客観的解釈」というものがあるわけではない。我々が問うべきは、「どちらの物語の方が、自分の心に素直に入ってくるか?」であり、さらに言えば、「どちらの物語の方が、自分の心が癒されるか?」「どちらの物語の方が、自分の心が成長できるか?」であろう。
・「人生の解釈力」とは、ある意味で、人生において与えられた出会いや出来事を前に、そこから「自らを励ます物語」「自らを癒す物語」「自らを成長させる物語」を生み出していく力のことでもある。

神話の法則・・・
マーケティングとは顧客を英雄物語に連れ出す旅だという話とも通じるところ。
ユングのいうアーキタイプがそれを言っている。
なぜ ではなく どのように というのが賢い問題解決能力と言われるけど、
ここではそれを否定しているのでは、ない。
ここでいうなぜ は、表面的ななぜではなく、
人生の意味というもっともっと深いところの、なぜ。
だから段階が違うのだ。

●欠点はあってもいい

・人は、非があり、欠点があり、未熟であるから、周りの人の心が離れていくのではない。人は、自分の非を認めず、欠点を認めず、自分には非が無い、欠点が無いと思い込むとき、周りの人の心は離れていく。
・心理学の世界では、例えば、ある新車の魅力を語ったパンフレットを読みたがるのは、すでにその新車を買った人であり、そのパンフレットを読むことによって、「自分の選択は間違っていなかった」と思おうとすると言われているが、このように、人間の心には、自分の過去の選択や行為を「正当化」しようとする傾向がある。そのため、誰かと感情がぶつかり、心が離れたとき、その自分の行為を「正当化」するために、無意識に、相手の欠点や問題点を探し始めてしまうのである。
・その違いを、科学の教科書には、こう書いてある。「発酵」も「腐敗」も、微生物が有機物を分解する性質。そのうち、人間にとって有益なものを「発酵」と呼び、人間にとって有害なものを「腐敗」と呼ぶ。この「発酵」と「腐敗」に関する定義を読むと、読者は、「科学的客観性」を超えた「人間中心」の主観的な定義に、驚くのではないだろうか?
・同様に、我々は、「長所」と「欠点」の定義を論じるとき、自分にとって好都合なものを「長所」と呼び、しばしば、自分にとって不都合なものを「欠点」と読んでいる。

人は誰しも、自分がいちばんかわいい。
だから「正当化」したがる。
ポイントは、それを踏まえてなお、自分の欠点を、
許し、認め、受け容れられるかどうか。

●引き受け

・私は、実社会に出てから、この母の姿、「自分に非の無い出来事に対しても、自分にも非があると思って、真摯に受け止める心の姿勢」が、「引き受け」という「こころの技法」であることを学んだ。

ミスターXにも同じことを言われているところ。
ここは、わかっていてもなかなかできない、本当に修行だ。
リーダーシップをとるということは、これができるということ。
この道を歩く決意をするということ。

●本当の感謝

・もし、目の前にその人がいないとき、一人、心の中で、その人に感謝できるとすれば、それが「本当の感謝」に他ならない。会社からの帰り道、一人、自宅に向かいながら、心の中で伴侶に対して、「ああ、いつも、自分を支えてくれて有り難う・・」と思えるとすれば、それは、「本当の感謝」であり、まさに河合氏の言う通り、その人の「心の強さ」の現れでろう。
・我々は、心が強くなければ、もしくは、心が弱っているときは、相手に対して「こうして欲しい」「なぜ、こうしてくれないのか」といった要求や不満の思いを抱くだけで、その相手に対して感謝の思いを抱くことはできない。

慈悲喜捨の瞑想というのは、最近やっていなかったけれど、
いきつくところは、やはりここか。。

●和解

・古い時代の人々にとって、「墓参り」とは、ある意味で、すでに他界した人との「和解」の場でもあった。そして、科学の発達したこの時代においても、多くの人々の心の中には、「墓参り」を通じて、他界した人と語り合うことができるという感覚が、ある。

墓参りなど意味はない、と切って捨てなくてもいい。
実在しないということと、存在しないということは、別問題なのだ。
自分の心の中に存在しているのであれば、それは実在はしなくても存在している。
存在しているのであれば、それと向き合うための墓は、とても意味がある。
逆にいえば、墓がなくても、向き合う場があれば、何でもいいということでも、ある。そういうことをいろいろ考えていくと、
やっぱり自分は、墓を大事にしたいなと、思う。