トランスパーソナル、シンクロニシティ、LSD体験、心理療法…
1986年に出版されたにもかかわらず、今読んでも、なお新鮮な感じがする。20年たってようやく、河合隼雄さんが予見していた世界、切り拓いたものが、形になってきているような気がする。
トランスパーソナルに関して、あやしげな感じ、いかがわしい要素を排除し、正当派というか、真に科学的な態度をつらぬいている河合さんの話は、とても説得力がある。
以下、この本を読んで気になった点など。
●科学のベースは一神教から
・(西洋の)彼らの科学体系を築きあげてゆく熱意は、唯一の神の意志を知ろうとするという強い欲求に支えられていたのである(p8)
・西洋近代の自我は神の座を乗っとりつつ、一神教のパターンを継承しているので、彼らは自我のシステム内に矛盾の存在を許容できない。西洋近代の自我はその統合性の維持のため、それと共存できぬものをシステム外に追い出すより仕方がなかった。自我が外に排除したものは、既に述べたノイマンの象徴的表現との関連で言えば、死(老)、狂、女、子ども、であった。(p29) 欧米社会においては、これらは極端に低い評価を受けている。
・日本人は、自然科学と対立するものとしてキリスト教をとらえ、自然科学の発達によって「神が死んだ」などと浅薄な理解をしている人が多いが、自然科学とキリスト教の関係はそれほど単純ではなく、一見キリスト教に反するものと思われているような考えも、キリストの神の支えをもっていることを、われわれは認識しなくてはならない — マルクス主義、フロイトの精神分析、進化論なども、そのような観点から考えてみることが必要と思っている(p152)
・ダーウィニズム — 神様はいつもエリートの味方
●自我の限界から自己、東洋へ
・ソ連で宇宙ロケットの父と呼ばれているツィオルコフスキーはテレパシー研究者であり、彼はともかくこのような現象は自然に存在するのだから、これを非科学的な超自然現象などといって科学の領域外に押しやってしまうことこそ、非科学的であると主張している。(p42)
・宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」は、賢治自身の瀕死体験を基礎として書かれたのではないか(p88)
・「主体と客体は、一つのものである。それらの境界が、物質科学の最近の成果でこわれたということはできない。なぜなら、そんな境界など存在しないからだ」by量子力学の生みの親、シュレーディンガー(p118)
・西洋のnatureは客観的対象として自我に対するものであり、東洋の「自然(元々はじねん)」は自ずから然るもの。二元的に切り離された他ではなく、自他の区別のないところの自己とでもいうべきもの
・「おのずから」と「みずから」とは、一応の現象的な区別はあっても、根本においては一つの事柄をさしている(p147)
●安易な非科学的な態度の危険性
・トランスパーソナルの提唱者の一人、フランシス・ヴォーンは、「個以前(pre-personal)と超個人(transpersonal)とは区別すべきだ」とさえ名言している。(p32)
・全体の共時的連関を読みとることは、ややもすると偽の因果律と結びつく危険性をもつ。(p48)
・LSDでは、深い意識に下降していくのではなく、影の世界に入り込んで出てこれなく危険もある(p127)
・世界中にそんな高山などないと信じている人がいて、ヘリコプターでそこへ連れて行ったとすると、それはそれで大きい意味をもつことになろう。山の麓あたりで遭難まがいのことをくり返している人に比べると、まだしもましかもしれない。(p131)
●心理療法における治療
・家族や人間関係の問題を考えるとき、単純に因果的思考に頼ると、すぐに「原因」を見出し、誰かを悪者にしたてあげることが多い。— しかし、全体の現象を布置として見るときは、誰かが「原因」などではなく、すべてのことが相関連し合っている姿がよく把握され、そのような意識的把握と、その全体の布置に治療者が加わってくることによって、事態が変化するものである。(p69)
・心身症は、日本心身医学会の定義「身体症状を主とするが、その診断や治療に、心理的因子についての配慮が、とくに重要な意味をもつ病態」という慎重な定義に示されているように、心の問題が片付けばすべてが治るというようなものではない。その治療は、心の側からと体の側からの、両方の接近が必要であったり、片方のみからの接近でも治ることがある。(p63)
・治療者の役割 — 来談した人を客観的「対象」として見るのではなく、自と他の境界をできるかぎり取り去って接するようになる。治療者は自分の自我の判断によって患者を助けようとすることを放棄し、「たましい」の世界に患者と共に踏みこむことを決意するのである。(p179)
★自己実現の力は時に人間の自我に対して破壊的にはたらく。
★正面から苦しむことによってこそ治癒はあるとさえ言うべきである。
例) 当人の生きる意味を奪われてしまった状態 → うつ病