ほんとうはみんないい子なのに
過保護・過干渉になっていないかについて、再確認が必要だな。
たまに平井信義さんを読んで、軌道修正をはかる。
●自己主張の尊重
・民主的な家庭を作っている欧米では、子どもに対し、「自分の意見をはっきり言いなさい」と小さいときからしつけていますし、そのなかに「イヤだ no!」も含まれているのです。ですから、親たちは、子どもに「すなお」であることを望みません。その点で、わが国の親が子どもに望む第一の性格が「すなお」であるのと対照的です。
・「○○さんが見ていますよ」とか「○○さんに笑われますよ」といったように、他人のを引き合いに出してのしつけ…これは、「個性」を大切にしている欧米の親たちの「しつけ」の中には見当たりません。他人の目を気にするようにしつけると、「気兼ね」の多い子どもになってしまいます。
・わが国では、自己主張とわがままとを混同しているお母さん・お父さんがいるからです。自己主張は、自発性の発達している子どもが自分の意見をはっきりと言い、お母さんの命令にはなかなか従おうとしない状態です。一方、わがままとは、自分の物質的・金銭的欲望などをお母さんにつきつけて、それを手に入れようとしたり、「お水をもってきて!」などとお母さんに命令して、お母さんに奉仕させる状態です。お子さんの状態はこの二つのどちらでしょうか。
・子どもが「いたずら」を始めるころ、あるいは「冒険」を始めるころに、「危い、危い」と禁止したり、ちょっとおとなしくしていると「熱があるのではないか」などと額に手を当てたり体温を測ったりしますと、コドもは自分の行動についてだんだんと自信を失ってしまい、何か行動を起こそうとするときに、危険がないかと心配するようになりますし、ちょっと熱い感じがすると熱が出たのではないかと不安感をもつようになってしまいます。また、こわがりであったり、ちょっとしたことにもすぐに泣いてしまうという子どもであれば、子どもに無用な恐怖感を与えるような家族がいたり、泣かせないとしてちやほやする家族がいるはずです。
親自身が、幼いころから他人の目を気にするような教育を受けているから、
自分の子にも、自然と「周囲に気兼ねしたしつけ」をしてしまう。
ということは、まずは親である自分が
「他人からどう思われてもいい」という覚悟・腹を決めるのが大事。
●ユーモア
・おどけ・ふざけのじょうずなお母さん・お父さんですと、相当にかんしゃくを起こしていても、ケロッとそれがおさまって、子どもが笑い出すことがあります。しかし、わが国のお母さんやお父さんはユーモアのセンスもなく、冗談などが少ないから、このような注文はむりかもしれませんね。
・おどけたりふざけたりする行為をたのしむことが、子どもの心の解放には役立ちます。その点で、まじめであるということには大きな問題があります。お母さんがまじめであればあるほど、子どもは「しつけ」のわく組みの中にがんじがらめになっているものです。欧米では、「まじめ」な人間はつまらない人間であり、冗談やユーモアが非常に大切にされているのです。
きまじめ、ジョークがわからないというのは、
それだけ心に余裕がない、追い詰められた状態だということ。
ただし、そんな人に「ユーモアをもとう」といっても何の解決にもならない。
ユーモア=心の余裕だから、これは結果であって手段ではないように思う。
ユーモアが出てくるぐらいまで、ストレスを取り除く工夫が必要だろうなぁ。
●話をきく
・子どもには、お母さんのしごとがどのように運んでいるのか、年齢が低ければ低いほど理解できません。「今、忙しいんだから」と言っても、その内容は全くわからないでしょう。例えば、お母さんが夕飯の支度をしているときに、「お母さん、お母さん」と背後から呼んでいたら、お母さんとしてはどのような対応をしたらよいでしょうか。「今はダメ!」「あとで」という言葉は、子どもにとっては拒否的にならります。「うるさいね」という言葉もさらに強い拒否です。いったんは子どもの顔を見て目を合わせることです。そして、手がよごれていたら、「この手がつくぞ」と子どもの顔の前に差し出してみます。子どもは、「わあっ」と言って引き下がるでしょうが、ふざけたくてまた寄ってくるでしょう。しかし、二、三回ふざけあってから、「あとでね」と言えば、子どもはお母さんの状態がわかりますから、あとでおしゃべりをしようという気持になるでしょう。
・お母さんとしては、仕事をしながらおしゃべりを聞いてあげようとするかも知れません。忙しいので、それもやむを得ないことがありますが、子どもにしてみればじっくりと聞いてもらいたいこともあるのです。立場を逆にして、お母さんが子どもに話を聞いてもらいたいときに、子どもが何かほかのことをしながらその話を聞こうとしたならば、お母さんは、態度が悪いとかふまじめだなどと言って、子どもを叱るのではないでしょうか。その点も考えながら、子どものおしゃべりを聞いてあげたいものです。
・子どもは、大人とちがって、これからゆっくりとおしゃべりをしよう – などと時間を作りません。急に思いついて、お母さんに聞いてもらいたいことができてくるのです。そのときに、もし手を休めることができれば、子どもをひざの上に抱いて、子どものしゃべりたいことをゆっくりと聞いてあげられるならば、子どもは満足します。ところが、お母さんの仕事を優先させてしまい、子どものおしゃべりを聞く機会を逃し、子どもの心に不満を与えてしまっているお母さんが少なくないのです。
・これから、子どもから「お母さん、お母さん」と呼びかけられたときには、ゆっくりと聞いてあげるお母さんになって下さい。子どもの話すことは、お母さん・お父さんにとってつまらないことであるかも知れませんが、子どもはそれをお母さん・お父さんに聞かせたいのです。その気持を汲むこと、それが「思いやり」です。「思いやり」のあるお母さん・お父さんによって、子どもの心にもだんだんに「思いやり」の心が芽生え、少しずつ親たちの迷惑になるようなことはしなくなるものです。
子どもが話しかけられたときに、「話をきく」ということと、
女性に話しかけられたときに男性が話をきく というのは似ている気がする。
●軽率にほめない
・子どもの絵を軽率にほめるのは考えもの お母さんがほめるときには、子どもをおだてて、もっとじょうずになってほしいという気持が含まれています。つまり、お母さんが「じょうずね」とほめた言葉の裏に、「他の子どもに負けないで」とか「もっとがんばってやって」というお母さんの気持が含まれていますと、子どもはそれに敏感に反応しますから、だんだんにお母さんに見せなくなってしまいます。
・子どもは遠慮なく「変なの」とか「おかしい絵」などと勝手なことを言います。気軽にそうした言葉を交わしてきた子どもは、友だちにけなされても、あまりショックは起きませんし、聞き流してしまう子どももいます。ところが、お母さんにおだてられてきた子どもは、挫折感を経験していないので、友だちに何か言われるとショックを受けることになります。世の中には、子どもに対してショックを与えるようないろいろな出来事がたくさんありますから、それに耐え、それを乗り越える意欲を子どもに育てておくことが、人生を力強く生き抜くために必要です。
・これからは、できるだけ批判や非難をしないようにしなければなりませんし、むやみにほめることも慎む必要があります。むやみに – と言うのは、よくできる子どもにしたいというわけで、「よくできるね」とほめることが多いことを言います。ほめられることは子どもにとってうれしいことですが、うっかりしていますと、だんだんに優越感が強くなってしまいます。自分はよくできる子だと思うと、それを維持するために、失敗を恐れるようになってきます。そうなると、他人の前に出たときには、緊張状態におちいってしまいます。ですから、声も出なくなるし、歌も歌えなくなってしまいます。
結果をほめずにプロセスを褒めるべきとか、
結果をほめずに姿勢を褒めるべき
という話があるけれど、それとはまた別に、
この、心理操作のために価値観を押しつけないというのは、もっと大事。
ここがわかっている人は、なかなかいない。
●せき立てない
・「早く、早く!」…子どもにしてみれば何とかして自分でやろうと努力しているのに、お母さんからせき立てられますと、かえってすまくいかなくなって、時間がかかってしまいます。しかし、子どもが一生懸命やった結果がお母さんの気に入らなくて、お母さんから叱られるようなことがありますと、子どもは自信を失い、劣等感のかたまりのようになってしまうことがあります。
早く! とう言葉はつまり 遅い! と言っているのと同じ。
否定のメッセージなのだ。
●しつけという名の過干渉
・寝る前に「お寝小をしませんように」とお祈りをさせているお母さんがいますが、子どもの心に夜尿の意識を固着させ、子どもをかえって緊張した状態に追い込んでいるわけで、かわいそうな仕打ちと言うべきでしょう。
・外出前に「おしっこは?」と聞いたり、何べんもトイレに通わせたりすると、子どもには不安が強くなります。このような子どもに対しては、まず、お母さんが子どもに干渉しないようにすることが必要です。つまり、「口出し」をしないことです。とくに、子どもに対して失敗をさせないようにしようという思いが強いと、どうしても「口出し」が多くなってしまいます。おそらく、お母さん自身も、その親から同じように育てられたのではないでしょうか。そのために、よく気がつく人などとほめられてきたのではないでしょうか。いずれにしても、子どもにとって「失敗」の経験は非常に大切です。たくさんに「失敗」をすることによって、経験が豊かになるのです。ただし、「失敗」に対して絶対に責めたり叱ったりしないことです。責められたり叱られることの多かった子どもは、だんだんに劣等感が強くなり、自信のない子どもになってしまいます。
・原因の第一は、お母さんや家族に、誤った「よい子」のイメージがあって、それを子どもに押しつけたことが考えられます。例えば、園にいくと声が出なくなるのは、自分の気持や考えをありのままに言うことができないからです。それは、じようずに話さなければならないとか、正しい言葉を使って話さなければならない – といった具合に「ねばならない」という意識にとらわれてしまうからです。子どもはもともと「自由に」自分の感じたことや考えたことをおしゃべりできるのですが、お母さんや家族からいろいろと誤った「しつけ」をされると、それがこだわりとなって、「自由に」おしゃべりをすることがてきなくなってしまうのです。…そうした気持の動きは、家で歌ったときに、お母さんや家族からいろいろと批判されたり、じょうずに歌うように励ましを与えられているからです。子どもは、へたに歌ってはならない – とか、じょうずに歌わなければならない – といった気持になってしまいます。
あれしなさいこれしなさい は言っていなくても、
無意識に、子どもの言葉や行動に訂正を加える、などの「評価」で
がんじがらめにしている可能性がある。
自分ももっと、自己点検しなくては。
●けんか
・友達にからかわれたときに、どうしたらよいでしょうか。お母さんが近くにしても、決して子どもの味方にならないことです。子どもの味方になって相手の子どもを責めたりすれば、それが過保護になりますから、子どもの自発性の発達を妨げてしまいます。ですから、お母さんはじっとこらえて、どのように子どもが対処するかを見ていることです。子どもが自分の力で立ち向かっていけば、それに「まかせて」おいてよいでしょう。もし、泣いてお母さんのところへやって来たときにはどのようにしてあげたらよいでしょうか。そのときには、じっと抱いてあげましょうるつらい思いをしているのですから、その気持を汲んであげることです。しかし、お母さんが情に流されて涙を流すようなことがあれば、子どもを弱虫にしてしまいます。ですから、お母さんは情に流されないようにがんばらなくてはなりません。
・心理的に言って兄らしさの気持が少し現れるのは何歳でしょうか。それは、四歳前後です。このころになりますと、ほんの少し下の子どもをかわいがる気持が出てきます。しかし、それがほんの少しであることを忘れないでください。自分の持ち物(玩具など)にさわられると怒ります。そして、ガンと突き倒すかも知れません。また、自分の遊びを妨害されても怒ります。そして「あっちへいけ」とこわい顔をして下の子どもを泣かしてしまうでしょう。それを見たお母さんは「お兄ちゃんのくせに何です」と叱ってしまうことが多いのです。そうなりますと、上の子どもの心は傷をつけられてしまいます。それは、兄らしさといった気持が発達していないからです。強い不満が残ります。そして、下の子なんかいないほうがいい – と思ったり、それを行動現して、下の子をいじめるようになります。ところが、お母さんに叱られるのがこわくて、じっとがまんをしている子どもがいます。しかし、心の奥ではいらいらしていて、それがいろいろな形でからだに現れてきますが、昼間遺尿となって現れてくることが少なくないのです。
・けんかを通して、子どもは社会性を発達させます。ただし、それは、大人の介入なしに「けんか」の経過を見た場合です。大人が介入して「けんか」がおさまった場合には、両方の子どもの心には不満が残ります。とくに、悪者にされた子どもには、相手の子どもに対して敵意をもつことさえあります。そのような子どもが「けんか」を始めますと、不満や敵意が爆発しますので、いろいろと危険な攻撃的行動を現すことさえあります。ですから、子どもの「けんか」には大人が介入してはいけないのです。
・幼稚園などで、その教育目標の中に、「いつも仲よく」などを掲げていることがありますが、これは子どもの発達を無視したものと言えましょう。
・「いつも仲よく」を望みますと、先生の中には「けんかをする子は悪い子」などと言って「悪い子」と評価する者が現れてきます。また、子どものけんかに介入してきて、「どっちが先に手を出したの」などと「けんか」を裁こうとしますし、けんか両成敗というわけで、二人に「ごめんなさい」を言わせて幕切れにしようとします。このような先生に出会ったら、子どもの社会性の発達は妨げられてしまいます。お母さんにしても同様で、子どもの「けんか」に介入しては、子どもの心に傷を与えている者が少なくありません。子どもの「けんか」には流れがあって、一つの場面を見ただけで、よいの悪いのと裁くことはできないのです。
・「親友」などは思春期以後になってできるもので、幼児期の仲よしは本当の仲よしではなく、どちらかの子どもの自発性の発達がおくれているために自己主張をしないので、うまく折り合っているに過ぎないのです。二人とも自発性の発達がおくれている場合には、さらに静かに遊んでいて仲よしのように見えますが、遊びの内容が貧弱で、いきいきとしていません。その点をよく見抜くお母さんになってほしいのです。そして、自発性の発達をうながすために、これまでの育て方を180度変えなければなりません。つまり、「けんか」のできる子どもにするわけです。
・「けんか」は見ていて決して楽しいものではありませんが、子どもの「けんか」に親は口出しをしない – という原則を守ってほしいと願っています。危険を避ける工夫をしながら…。
(危険がない限り)ケンカを止めるのはだめ。
危険がある場合は、危険がないようにだけ見守ってあげる。
怪我をしそうなものを取り除くなど。
それから、どちらが悪いのか裁くのもダメ。
それから、両成敗といって両方に謝らせるのもダメ。
気が済むまでケンカをさせるぐらいでちょうどいい。
必ずしも、やられたらやりかえせ と積極的に言う必要もないけれど、
本人がどうしたいのか、気が済むようにさせてあげればいいと思う。
●反抗
・行儀が悪くなるのも、行儀の「しつけ」が一定のわく組みの中に子どもをはめ込んできたので、それに抵抗する気持からしているのです。子どもは、行儀をよくしなければならないことを知っています。知っていて行儀を悪くしているのですから、注意をする必要は全くありません。昔から、反抗期の子どもには「のれんに腕押し」といった扱いがよいと言われていますが、わざとしていることに対しては、「行儀を悪くしてみたいのね」と言えばよいでしょう。ただし、それが皮肉になっては子どもの心をゆがめてしまいます。つまり、子どもの反抗したい気持がよくわかり、お母さんもその気持を受け入れているのであれば、「行儀を悪くしてみたいのね」という言葉は、子どもの心に受け止められます。そうでないときは、どうしても皮肉になってしまいますので、むしろ何も反応しないほうが安全です。それが「のれんに腕押し」です。そして、しばらくの間「しつけ」をする気持をやめましよう。
たぶんこの「しつけ」も、
ほとんどの人は「他人の目を気にして」のような気がする。
だから逆に、他人の目が気にならなくなると「何も教えない」、
という全く極端な方向に一気に振れてしまう。
なんのためのしつけなのか、そこが抜けているから、こういうことになる。
これについては、
子どもが社会生活を営めるように、
子どもが自分でできるようになるように
という、モンテの考え方が役に立つ。
●固定観念教育
・日本の子どもは太陽を赤く描きますが、西ドイツの子どもたちは黄色く描くことが多いのです。それは、曇っている日が非常に多いためと言われています。また、にほんの子どもが太陽を赤く描くのも、すでに固定観念にとらわれているとも言えるのです。太陽が赤いのは、朝とか夕方であって、日中の太陽はちがいますね。子どもの絵の色彩についても、それがよいとか悪いとか、正しいとか誤っているとかを簡単に言えないことがわかると思います。
・ぬり絵 すでに一定の線を型が描かれているものに色をぬるだけの作業になりますので、子どもの創造性を伸ばすには好ましくないとされています。
学校というところは、画一的な「正解」を教えるところ。
平均とか標準とか多数決でいちばん多い回答とか。
少なくとも心のベースが育つ7歳までは、そういうものを教えたくない。
と、あらためて思った。
●過保護に育った子の特徴
・活発であるけれども、いつも誰か大人を相手にしなければ遊べないーというお子さんであれば、依存性が強いわけで、過保護のなかで育ってきたと言えます。
・過保護の状態が続きますと、子どもは何かにつけて大人の手を借りたがるようになりますし、「あれを取って!」とか「これをもっていって!」などと大人に向かって命令をするようになってしまいます。
・自発性の発達のの遅れている子どもは、お友だちができにくいものです。学校での勉強はそう面白くなくても、お友だちといっしょに遊ぶ楽しみがあるから、登校しているという子どもが少なくありません。また、自発性の発達している子どもは、体育が好きです。ところが、お友だちも少ないし、体育も好きでないという子どもの多くは、自発性の発達がおくれていると見てよいでしょう。
・自発性の乏しい子どもほど、お母さんに「やって!」と言って自分からは動こうとしないからです。子どもの中には、「あれを取って!」と命令する子もいます。そういう子どもにしたのは、お母さんが子どもにサービスを多くしてきたからです。サービスをいかに少なくするかが、子どものこれからの人格形成に大きな意味をもってきます。
・お母さんにとって扱いやすい子どもの多くは、自発性の発達がおくれていると見てよいでしょう。自発性の発達している子どもの場合には、「いたずら」によってお母さんを困らせることが多く、近所からも文句がきたりします。活動がさかんなので、家中を散らかしたりしますし、物をこわすことも多くなり、お母さんとしては世話が焼けるものです。とくに二歳から三歳にかけて「第一反抗期」に入りますので、お母さんが「早く食べなさい!」などと命令調で言えば、「イヤだもん」と言ってわざとおそく食べたり、お母さんが衣類を着せようとしますと、「自分でする!」と言ってその手を払いのけるでしょう。お母さんの目から見ますと、二歳代の子どもには無理だと思われるようなことでも「自分でする!」と言い張りますから、扱いにくいことが多く、思わす腹を立ててしまうようになり、お母さんには扱いにくい子どもです。また、しばしばかんしゃくを起こします。自分の力でやろうとしていたことをお母さんがやってしまったときなどは非常にかんしゃくを起こしますし、からだをよじって泣いたりもします。
・自発性の発達のおくれのもう一つの問題は、過保護にあります。こどもに「まかせる」ことが必要な日常的な事柄に対して、手を貸してしまっています。衣類の脱ぎ着を手伝ってしまったり、「やって」と言ってきたときに、すぐに手伝ってしまったり、「水、ちょうだい」と言ったときに、子どもにサービスをしてしまっています。
・衣類を着せるときにはお母さんが手伝っていたり、子どもが足を出すと靴をはかせてあげているお年寄りがいたりします。顔をお母さんがふいてあげている例は少なくありません。大便をしたあとのお尻をふいてあげていたお年寄りもいます。このようにして過保護の扱いの中で、お母さんにとって最もやりやすい部分から子どもに「まかせる」ことを始めて、それに成功したら「がんばろう」と励ましを与え、次のことに移ります。その結果、生活習慣の全部を自分の力でやることができるようになると、成果いつそのものに自信がついてきます。そして、園生活に対する不安が消え、お友だちと遊ぶことを楽しみにするようになります。意欲的にいきいきと遊び始めるでしょう。
いい子、いうことを聞く子 は要注意。
むしろ、手にかかる子、いうことを聞かない子 に育てたい。
都合のいいオンナ を意図的につくる共依存タイプの男が最悪なのと同じように、
子どもを依存させることでよしとする親も、また最悪だ。
●自発性の発達した子
・自発性の発達している子どもは三歳から四歳の間に必ず積極的にお友だちを求める気持が強くなり、お友だちといっしょに戸外で夢中になって遊びますし、夜は夕飯を食べながら睡くなって、バタン、キューと寝入ってしまいますから、くせに逃げ込むようなことはありません。その暇がないと言えましょう。
・いきいきと意欲的に生活している人間は、朝起きたときに「ようし、今日もまた一日がんばろう」という気持になりますし、一日の自分の生活が充実しています。子どもも同じです。学校生活が楽しく、とくにお友だちと遊ぶ楽しさを味わっている子どもの場合には、朝もパッと起きますし、足取り軽く登校するものですし、早く家を出て困るという状況さえも生じます。
・いわゆる「内弁慶の外すぼみ」であるのに、園には一日も休まずに通っている子どもは、心の中では園の生活の楽しさを味わっている子どもです。みなといっしょに行動していなくても、お友だちのすることをよく見ていますし、お友だちがいろいろしているその楽しさに共感しているのです。共感と言うのは、そのお友だちと同じような気持になっているのです。このような子どもは、家に帰ってくると、園でお友だちがしていたのと同じような行動を演出して見せることがよく有ります。先生のしていることをよく見ていて、家の中でそれをまねして見せることもあります。このような子どもは、じっと待っていても、やがてみなといっしょに遊び始めるでしょう。
朝、元気よくおきられるかどうか
幼稚園や学校を楽しみにしているかどうか、休みたがらないか
というのは、簡単でわかりやすい自発性の発達調査。
●注意すべきこと
・時間を決めずに間食を与えているのは、欧米ではあまり見られない現象です。子どものことを考えている家庭では、ティータイム以外には子どもに飲食物を与えません。実は、オトナたちもきちっとティータイムを守っていて、時間以外にきたお客さんには何も出さない習慣が確立しています。その点で、わが国では何人かが寄れば飲み食いを始めますので、子どもに対してしめしがつきません。
・子どもが食卓を離れて遊び始めたならば、食べた量がどんなに少なくても、それで食事を終わりにして、片づけることにしましょう。「片づけますよ」と声をかけますと、子どもは「食べる」と言うでしょう。そこで食べるのを待っていますと、結局はだらだらとした食事になってしまいます。ですから、お母さんも終わり – ということにして、片づけてしまうことが大切です。こうした育て方をくり返していますと、二、三週間過ぎますと、子どもは食事に対して意欲的になります。それは、空腹感を味わい始めているからです。また、熱心に食べないと、あとでお腹が空くことを体験したからです。
・泣いても要求が通らないことをきちっと教える。つまり、子どもにけじめを教えない限り、子どもはわがままになってしまいます。わがままな子どもには「思いやり」は育ちません。「思いやり」のある子どもにする一つの大切な方法は、とくに飲食物とか玩具などの物質的な要求を子どもから出されたときに、きちっとルールを作っておき、そのルールを子どもに守ってもらうように、大人たちがそのルールを守ることです。
厳しくするところと甘えさせるところ。
どこを境界とするか、わかりやすい基準は、モノと食べものは、しっかりけじめを。
それ以外は、十分に甘えさせる。
●必要な甘え (人見知りは正常>過保護の結果ではない)
・しかし、三歳から四歳にかけては、お母さんに頼りたいという気持と、友だちと遊びたいという気持とが半々のときです。ですから、「ママついていって」という注文を出すことがあっても、当然のことです。ですから、送っていってあげましょう。そのうちに「もうついてこなくてもいいよ」と言うようになるでしょう。お母さんが急いで「強くたくましい子ども」にしたいとあせりますと、お母さんに頼っていたいという気持を拒否するようになりますので、それが子どもの情緒を不安定にし、友だちと遊ぶことを好まなかったり、園生活にもなじめない子どもにしてしまうことがあります。
・三歳までは「人見知り」のある子どもが「よい子」ですし、三歳を過ぎても新しい場所では初めのうちはお母さんの手を離さないという子どもが「よい子」です。幼稚園のすぐれた先生方は、入園当初お母さんの手を離さずに泣く子どものほうが、あとで伸びるーと言っています。それは、お母さんを心の基地にしていて、情緒が安定しているからです。あなたのお子さんも、あるいは入園当初泣くかも知れませんが、むしろ「あとで伸びる子」と考えて下さい。園生活に慣れてくると、いきいきと遊ぶでしょう。
・「添い寝」の研究をしてみますと、お母さんが無理にやめさせようとしないでも、子ども自身で「添い寝」を求めなくなることがわかってきました。それには二つの条件があります。その一つは、十分に「添い寝」をしてあげるということです。お母さんにも「添い寝」をしてあげることを楽しむ気持があり、子どもも十分に楽しみ、母子間の情緒的な結びつきができていますと、子どもの情緒が安定していますから、子どもはだんだんにからだで甘えることはしなくなります。とくに三歳から四歳にかけて、お友だちと楽しく遊ぶようになりますと、急にからだでの甘えが減ってきます。しかし、小学校二、三年生になるまでは、ちょっとひざの上に乗ってきたりしますし、思春期になるまでは、お母さんのからだに自分のからだを寄せてくるでしょう。そのようなときは、学校で先生に叱られたとか、友だちとけんかしたとか、家庭外での出来事で心に不安が残っているのです。そのように、お母さんに寄り添っているうちに、家庭外で起きた出来事による情緒的な不安は解消されるのです。抱きかかえるようにしてあげましょう。
・さらに大切なことは、三歳までの子どもの育て方です。赤ちゃんに「微笑」が多くなるのは生後二ヶ月ごろですが、このときに赤ちゃんをあやしてあげたかどうかです。
・赤ちゃんは、一人遊びに飽きますと、きょろきょろと周囲を見回し、お母さんがいますと、「おお、おお」と声をかけて抱いてほしいと要求します。そのときに抱いてあげますと、赤ちゃんは大喜びです。つまり、スキンシップを楽しんでいるのです。このようにしてスキンシップを楽しんだ赤ちゃんは、乳児期後半になりますと、必ず「人見知り」が生じます。「人見知り」が現れるということは、母子間の情緒的な結びつきができたことを意味します。この「人見知り」は三歳ごろまではかなり強いのがふつうです。
・一歳半から二歳半にかけては、子どもが寝入るときにそばにいて、お話をしてあげたり、歌を歌ってあげることが、子どもが安らかに睡る状況を作り出すものです。その意味で、「早く寝なさい」などと無理に寝かせつけるようなことが多いと、子どもは不安をまぎらわすために、くせに固執するようになります。
・お子さんは、お母さんのひざの上によく乗るでしょうか。これまでも、お母さんのひざを心の基地としてきたでしょうか。お母さんが忙しかったりして、これまであまり子どもにかまってあげることができなかったということであれば、この際、集中的に子どもとの心の結びつきをつけるために、ひざの上に乗せてあげたり、「添い寝」をしてあげましょう。こうしたスキンシップは、子どもの情緒の安定に役立ちます。それは、お母さんからかわいがられているのだ – という確信につながるからです。
・とくにお父さんには、赤ちゃんの世話をしてもらうわけです。おむつを替えてもらったり、お風呂に入れてもらうなど…。そして、お母さんは上の子の相手をするのです。下の子の扱いはこわいというお父さんであれば、上の子の相手を十分にしてもらいますと、子どもの情緒はかなり安定します。しかし、お母さんの相手のほうが子どもにとってはうれしいのです。おばあちゃんがいれば、おばあちゃんに赤ちゃんの面倒をみてもらうようにして、お母さんは上の相手をよくして、不安定になっている情緒をいやしてあげるように努力します。いじいじしている子どもを叱るようなことは極力させて下さい。
この手の本がわかりにくく、世の中の親に混乱を与えているのは、
年齢・発達段階に応じて、やるべきことの優先順位が変わるのに、
それが具体的にかかれていないということ。
もちろん、子どもによって個人差があるから、それは明確に数字で書けないんだろう。
だけどそうはいっても、ある程度の目安を書いてあげないと、
間違えた常識が広まってしまったり、混乱してしまったり、ということになる。
そこは、ちゃんと自分で医学的な知識をおさえておかないといけない。
●運動が苦手な子どもをつくる家庭環境
・体育がにがて – という子どもについてその生育史を調べてみますと、運動機能の発達の始まるころ、つまり、はいはいや伝い歩きやあんよの始まるころに、それらを十分に楽しむような状況を作ったかどうかがかかわっています。部屋が狭かったり、「危ない、危ない」と言って抱き上げることが多かったりしますと、積極的にからだを動かす楽しいさを味わうことができません。とくに、あんよがじょうずになってきますと、戸外に出たがります。この時期に、お母さんが戸外に連れ出すことを面倒がったり、そのほかいろいろな事情によって戸外に出すことが少なかった子どもは、からだを全面的に動かして遊ぶ楽しさを経験しないことになりまなす。
・多くの例で、お父さんが運動に興味がなかったり、お母さんも同じようで、運動そのものにこどもが興味をもつことがないままに成長し、小学校の体育の問題が急に浮かび上がってくる – といった具合です。
・乾布まさつが、どのようにぜん息に効果があるのでしょうか – と質問されることがありますが、それをきちっと説明できるだけの証明はされていません。私の園医としての経験から、この乾布まさつを実行した子どもの場合には、卒園するまでにほとんどがぜん息の発作を起こさなくなっています。かぜを引いたときに多少呼吸が荒くなる子どももいますが発作は起こしていません。
言葉による規制をしないように気をつけていても、
物理環境として「狭い」というだけで差が出てしまう。
日本に住むのと欧米に住むのでは、そういうところでも差になりそう。
家、買ったほうがいいのかな…
●知性よりもまず情緒
・四歳前後から、なぜ – とか、どうしてと質問をすることが多くなりますが、それは正しい科学的な答えを求めていると言うよりも、質問に答えてもらうことの楽しさを味わっており、お母さんやお父さんとの間の情緒的な結びつきを楽しんでいるのです。ところが、お母さんやお父さんのなかに、子どもの質問に対しては、科学的に正しい答えをしてあげなくてはならないように思っている人がいます。そのようなお母さん・お父さんは、それがあからさまでなくても、知的な面を伸ばそうと考えているものです。
・子どもの人格形成にとって何が一番大切かと言いますと、情緒です。情緒が安定しており、だんだんにそれが発達していくことです。人間は感情の動物と言われているように、感情または情緒の乏しいことは、人格にとって大きく欠陥となり、それが思春期以後になっていろいろな形で問題を起こすことを、私はたくさんに経験してきました。
・お母さんもお父さんも、子どもらしい遊びができるように、お子さんとすもうをとったり、ふざけっ子をしたり、ジョギングをしたりして体力をつけ、頭でっかちの子どもにならないように、努力しましょう。お友達とよく遊ぶことのできる子どもにする – というのが五歳児の子育ての目標です。
・子どもの言葉は、お母さんや家族の人たちから言葉の刺激を与えられて発達しますが、その際に、相手をしてもらうことの楽しさを経験していることが必要です。そうした経験がありますと、あやしてもらいたくてさかんに赤ちゃん言葉を発するようになるのです。つまり、相手とのコミュニケーションをもとうとする意欲が湧いてきます。
仕事をするようになって実感するのは、
学歴があって仕事ができない人よりも、
技術職としての仕事はできるけどコミュニケーションがダメな他人よりも、
友だちがたくさんいて、マネジメントができる人の方が、幸せになれるということ。
幸せになれるだけではなくて、人の上に立つこともできるということ。
バカではだめだけど、IQが200ある必要も、ない。
それよりは、コミュニケーション能力重視で、育てたい。
●問題のないウソと問題のあるウソ
・この年齢(五歳前後)の子どもは、自分が創造したことと、現実とをいっしょにしてお話をすることが少なくありません。ですから、「想像的なうそ」と呼んでいます。
・防衛的なうそとは、ものをこわしたときに「ぼくじゃない」と言い張るようなうそです。うそをつかない子どもにしようとするならば、子どもの失敗を非難しないようにすることです。そういうお母さんに対しては、子どものほうから「こわしてしまってごめんね」と言うようになるものです。ものをこわしたときなどには、子ども自身、「しまった」と思っていますから、「この次には注意しようね」と言うか、それも言わなくてもよいくらいです。
・防衛的なうそのほかに、自分の立場をよくするためにうそをつくことがあります。幼稚園で先生に手伝ってもらった工作などを、「ぼくが一人で作った」などとうそをつくことです。このときにも、お母さんの反省から始める必要があります。それは、これまでの子育ての中で、子どもをほめることが少なかったのではないか、けなすことが多かったのではないか – ということです。子どもには(人間には)、他人に認めてもらいたいという気持があります。子どもの作った作品がお母さんの目にはへたに映っても、よく見ると、子どもなりに工夫したり努力したりして作っているもので、その点をきちっと認めてほめてあげるお母さんには、子どもはうそをつきません。
想像的なウソは、むしろ奨励すべき。なのにこれを否定する人がいるのは、悲しい。
防衛的なウソですら、厳しく否定する必要もないのだから。
立場をよくするウソだけ、注意しておけば、いい。
でも、それを言う子、案外多いなぁ。
●口や唇に関するくせ
・口や唇に関するくせは、赤ちゃんのときの育て方の誤りの結果が、今日まで続いていると言ってもよいでしょう。赤ちゃんが空腹で泣いたときに、赤ちゃんが満足するまでお乳が与えられたか、不満が残ってしまったかということが、くせが生ずるかどうかにかかわりがあるのです。ですから、「自律授乳」がすすめられているのです。「自律授乳」というのは、赤ちゃんがお腹が空いたときには、授乳時間にこだわらずにお乳を与えること、その量も赤ちゃんが満足するまで与えてよいことを意味します。その点で、授乳の時間や量にこだわって子育てをしますと、赤ちゃんには不満が残ります。その点で、古い時代の育児書には誤りがありました。きちっと時間を決めて授乳し、とくに人工栄養の場合には一定量を超えないように – という指導をしていたのです。子どもが赤ちゃんのときに、お母さんが忙しかったために、赤ちゃんが空腹で泣いていてもそのままにしておいたり、もっと飲みたいと言っても与えなかったりしたようなことはなかったでしょうか。
・指しゃぶりですが、これは赤ちゃんのときには多くの子どもが経験することであって、特別のことではありません。ただし、おしゃぶりを使っている赤ちゃんの多くには、指しゃぶりが生じないので、私は、おしゃぶりを使うようにすすめています。アメリカの育児法ではおしゃぶりが不潔だとしてやめるようにすすめているのですが、ヨーロッパでは平気で用いています。赤ちゃんのときに指しゃぶりがあっても、自発性が順調に発達すれば、だんだんに消えていきます。
完全母乳の場合と、混合の場合、ミルクだけの場合や、
出産の仕方(自然分娩と帝王切開、自然分娩や帝王切開でもその内容など)によって
自律授乳といってもその方法は全然かわってくるだろうと思う。
このあたり、その状況別に考察しないと、ちょっと危ないように思う。
●こだわり
・いつもきちっと手を洗ってからでないと食事をしないという子どもがいれば、すでに不潔恐怖症が始まっているか、お母さんがこわいからか、手洗いをちゃんとすることでほめられたいと思っているか、いずれにしても子どもらしい活動の少ない子どもです。
・手洗いなどをごま化しても、責めないで、ユーモアで表現する工夫をしましょう。
親が神経質になると、子どもはすぐにそうなってしまう。
結局のところ、子どもをどう教えるかよりも、
親がまずどうあるべきか、を考えておけば、事足りる。
●テレビ
・「もうおそいから寝なさい」と言ってテレビを消すと、お子さんが怒る – それに負ける親では、全く「しつけ」のできないお母さんだと言いたくなります。おそらく、もう少し大きくなり、子ども部屋を与えるようになりますと、その部屋にテレビを備えるのではないでしょうか。テレビ中毒は続いていくでしょう。
・テレビの見過ぎについては、目を悪くするなどは抹消のことで、人格形成にゆがみを安宅てしまいます。第一は、自発性の乏しい子どもになることです。自発性とは、自分で考えて「遊び」を見つけ出し、いきいきと「遊ぶ」力です。この力が伸びていくためには、「遊び」に夢中になる子どもに育てなければなりません。その中に、「いたずら」が含まれています。「いたずら」は、大人で言えば研究心の現れです。
平井氏の本を読むと、しつけや、親が思い込んだ正しさを押しつけないように、
それから、いたずらは積極的に認めるようにと書かれている。
一方、しつけをすべきところ、けじめをつけるべきところもあると言う。
混乱をしないために、「しつけ」という言葉の定義を明確にする必要がある。
テレビ、お菓子、おもちゃを再現なく欲しがるのを否定するのも、
親の価値観の押しつけではないか、などと思ってしまうとわけがわからなくなる。
何冊もよんだ人はわかると思うけど、そうじゃない人は一瞬矛盾に感じるかも。
平井が認めているのは、子どもの自発性を促すいたずらであり、欲求。
平井氏が否定しているのは、自発性を阻害する受動的なモノや情報。
●性教育
・第一は、お母さん自身が「性」についてきちっと勉強しておく必要があるということです。この勉強は、家庭においても学校においても、誰も指導してくれなかった面で、お母さんは正統な教育を受けなかったわけです。そのために、「性」に対しては非常に誤った気持をもってしまっています。その一つが卑猥感です。つまり、エッチなことと思ってしまっています。ですから、子どもに教えるための積極的な気持にはなれないし、幼い子どもが「性」にまつわる行動をしたり言葉を使ったりしただけで、びっくりしたり、よくないことと思ってしまうのです。卑猥感のほかに、不潔感や罪悪感を持っているお母さんさえいます。これらは、お母さんの両親などによって植え込まれた気持です。
・これらの誤った気持を整理するために、お母さん自身が性教育について勉強してほしいのです。性教育についての本はたくさんに売り出されていますから、図書館や本屋であれこれと読んでみて、お母さんが最も気に入った本を一冊手許に買いおくとよいと思います。本の中には、生理的な解説にかたよったものがあり、私はこれを性器教育と呼んでいますが、もっと心を重視したものが望ましいでしょう。私は「性」が「愛」と結びついて、初めて「性」が人間性の仲に位置づけられる – と主張しています。
・第二に、子どもから「赤ちゃんはどこから生まれるの?」などと聞かれたときに、どのように答えたらよいかについて勉強しておくことです。そして、子どもに対してさりげなく答えられるようにしておくことです。それと言うのも、お母さんがおどおどした態度を示しますと、子どもはだんだん「性」についてはお母さんに質問してはいけないことと思うようになります。また、もし「そんなことを聞くものでない」と叱ったりすれば、「性」に対して罪悪感をもつようになってしまいます。お母さんたちは、親たちからそのような対応を受けたために、卑猥感や罪悪感をもってしまっているのです。
このあたりは、とても大切だけど、あまり深く触れていない。
平井氏が書いた性教育に関する書籍があれば、読んでみたい。