●この本を手にしたきっかけ
尊敬する田坂さんの話の中に、この人「亀井勝一郎」という人について少し語られたことがあって、それで、この名前を覚えていた。気になっていた。偶然、祖母の家で本棚を整理していたら、この本が出てきたので読んでみた。父が昔読んでいたのかもしれない。生きていたら父にきいてみたかったなぁ。
●この本から得た気付き
長く生きたことに対し、省察を加え、自分のやったことの意味を思索し、これを明確な自覚にまで結晶させてこそ体験といえる。漫然とあれこれの経験があるからといってそれを誇るのはまちがいだ。ましてそのことから、新しい生き方を求める青年に対し、抑制を加えるなどは、おとなの傲慢というものだ。
大人と子供という話があるが、では大人とはなんなのか、という話。
身にしみる。
「ためらい」や「片思い」の沈黙のないことが自由であろうか。何ごとでも思うままになるのが自由ではあるまい。— むしろ思うままにならぬ状態が、われらに自由を教えるのではなかろうか。そのときの苦悩に沈潜することで、魂の醗酵は促されるという意味で、自由人とは、思うままにならぬ状態に処した人間のことではなかろうか。恋愛とは美しい誤解だと言ったが、結婚とは恋愛が美しい誤解であったことへの惨澹たる理解である。結婚は恋愛への刑罰である。しかし、すべての人間が受けなければならない刑罰であるから、これに耐えることが必要である。 — そして、互いに弱点の多い人間同士として、恋愛から卒業し、人間として経堂するよう心がけるべきである。それがいやなら、一生を独身で送ることだ。その代わりその人は、人生に対する失恋者のような立場に置かれる゛たろう。
風俗の発達、性愛を金で買えるようになると、その価値が急激に失われる。誰もが楽をして幸福を得たいと思う現代。ここのに、離婚の増加、不倫の大衆化の鍵があるように思える。そのどちらも、互いに成長するという形の関係を避け、ゲームや映画のように、インスタントに幸福を求める「習性」がもたらしたものなのではないか、と私は思う。
臆病はわるいと言われるが、すべて弱点を生かすところに人間形成のひとつの条件がある。臆病そのものがわるいのではなく、臆病であることで無気力になるのがわるいのだ。逆に臆病であることによって考え深い人間になることが大切である。
臆病そのものをよさに変える。
このことは、とくに臆病な私にとって励みになる言葉だった。
率直ということと、粗野ということは決して同一ではない。これを混同してはなりません。こまやかな感受性をもった人は、ずばりと率直に言っても、必ず相手の気持の中に一度は自分を置いてみるものです。こんな表現をして相手はどう思うだろうか。またふいに口に出して、あとで自分ひとりで、あんなことを言わなければよかったと身悶えすることもあります。またよく考えて、こまやかなつもりで語ったことが、相手に全然通じないこともある。とかく感受性のこまやかな人は、こうした点で一人角力となり、自分で必要以上に苦しむ。文学者とか文学を愛する人は、こうした意味で、感受性の犠牲者と言ってもいいでしょう。
私も、青年時代は言葉というものについてとても悩んだ。だからこの気持ちはとてもよくわかる。しかし大人になるにつれ、いつの間にか、「率直」ではなく「粗野」になっていたような気がする。
言葉を失うということが恋愛の始まりと言ってもいいでしょう。—ところが沈黙の人間を、沈黙のままに育ててくれるものがある。それが芸術です。愛するもの同士が、その愛を沈黙のまま成長せしむる最上の方法は、造形芸術か音楽に接することです。 — 逢引の最上の場所は、美術館と音楽会であります。
これは、とてもよくわかる。「余裕」が出てくると異性にもてるようになるという話は一面の真実だけれど、しかし、もろく壊れやすいもの、手に入らない危うい不安定さの中で感じる、あの沈黙。それがないと、心から恋を楽しむことはできない。大人になってから擬似恋愛を求める多くの人、刺激を求める多くの人は、まさにその感情を、求めていると思う。
トルストイ、ドストエフスキイの作品の根底に、強烈に存在するものは罪悪感である。この二作家がつねに愛読され、問題になるのも、その一原因は、「罪」の意識が我々を動かすからだ。— 「私小説」が成立するとすれば、その一番大事な要素は、罪の意識に基づいた自己告白の衝動ではないか。
— 新しいモラルの為には必ずこうした破壊工作が必要なのである。人間の一切の仮面、擬態を破って、その転落の実相をみ、そこからはじめて各人の自由意志において、各人固有のモラルを発見せよという促しを「堕落論」は根底にもっている。
悪や性はたしかに魅力があるが、その娯楽性に甘えすぎて、これに抵抗する人間のタイプを創造しようという意力は衰えているのではないか。現代小説は処女姦淫と姦通の巣窟ではないか。それも人間性の実体に違いないが、それだけでいいのかと私は疑っているのである。
興味をひく作品、心に響く文章、感動させるレター、コピーライティングを行う上での重要な原則が、ここに語られていた。私のメンターが、文学やマンガ、映画を進める理由が、よくわかる。